子どもが「大人の遊び道具」としてボールのように蹴られていた…「子どもの人権」がない時代に実際に起きていた「衝撃的な事実」
クローン人間はNG? 私の命、売れますか? あなたは飼い犬より自由? 価値観が移り変わる激動の時代だからこそ、いま、私たちの「当たり前」を根本から問い直すことが求められています。 【写真】あまりに壮絶…「子どもの人権」がない時代の子どもの扱われ方 法哲学者・住吉雅美さんが、常識を揺さぶる「答えのない問い」について、ユーモアを交えながら考えます。 ※本記事は住吉雅美『あぶない法哲学』(講談社現代新書)から抜粋・編集したものです。
全人類に共通の良心なんてあるのか?
そして、もうひとつ自然法論が決め手とするのが「人間の良心」である。しかし人が人である以上、時代を超えて普遍的にもつとされる良心って何だろうか? 2019年1月に、児童が父親に虐待されて殺され、しかも学校や市教育委員会、児童相談所が虐待の実態を把握していたにもかかわらず救えなかったというやりきれない事件が明らかになった。 「笑いとか、怒りとか、悲しみとか、個人的に違いますけど、このニュースに関しては全員一丸となって怒ります」と、日頃はシニカルな大人気お笑い芸人が真剣にコメントしていた。 私もこの事件を知って、市教委や児相などの対応の悪さにも心底腹が立ったが、何といっても容疑者たる父親が「しつけだ」と称して実の子を拷問に近い虐待によって死なせたことに、強い怒りが込み上げてきた。 おそらく、この事件を知った日本人はほとんど、この父親の所業を無条件に許せないと怒っただろうし、海外の人権団体からも批判の声があがった。 現代の世界では、親が親権を盾にとって子を支配し、暴力や虐待で傷つけ、最悪の場合殺してしまうということは絶対悪で決して許せない、という感情をほぼ誰もが持っていると思う。 大人は、そしてとりわけ親は、弱い存在である子供を傷つけてはならない、という感情は、まさに現代の人類に共通した良心のひとつであると考えられる。 ところがこの感情も、時代を違えると変わってしまうのである。
子どもではなく「小さな大人」
現代のように、児童の人権を認め大人がそれをしっかり守ろうという思想が浸透している時代なら当たり前のことでも、ひとたびタイムマシーンにでも乗ってたとえば古代ローマに行ってみたとしたら、そこには現代とまったく異なる世界が広がっているのである。 そこには家父長制というのがあり、家族はひとつの軍団、そこの父親は家父長という名の軍団長、妻や子、奴隷はその手下と考えられていた。したがって父親は、妻や子が自分の意に反することをした場合などには制裁を科して、時には殺しても法律上の罪にはならなかったのである(但し道徳的には非難されたが)。 フィリップ・アリエス(1914─1984)という歴史学者によると、「子供」という概念はヨーロッパでは18世紀半ばになってようやく生じたものである(前掲のルソーが『エミール』という教育本を書いた時に、はじめて「子供」が発見されたとされる)。 それはこの頃に、育児をする者によって乳児の弱々しさ・可愛らしさが感じ取られ、さらに幼少の者を学校で正しく導かねばならないという教育への関心が生じたことによる。 しかしそれまでは、幼少者は単なる〈小さな大人〉としてしか考えられていなかった。つまり幼児は母親や乳母の継続的な世話やゆりかごなしで生活できるようになったらすぐに大人の世界に属し、大人と同じような服を着て、同じ遊びをし、同じことを見たり聞いたりしていたのである。 当然「子どもの人権」という発想のない時代であったから、〈小さな大人〉は時には大人の遊び道具として、ボールのように蹴られたりもした。そんな時代に生きていた人々には、「弱く無力な存在である子供を傷つけてはならない」という現代の大人の義務感など思いもよらなかったであろう。 このように、時代や民族を超えて、全人類が生まれながらに共通にもっている良心というものを見つけ出すことはきわめて難しい。 文明の発達が、今日の人間のさまざまな良心を作ったとも言えるだろうし、今後さらなる科学技術の発展によって、今日では想像もつかないような良心の大変化が起こるかもしれない。 さらに連載記事<「俺は間違った法律には従わない!」「お前が法律に従わないと世の中が乱れる!」…世の中の「ルール」をめぐる「大激論」>では、私たちの常識を根本から疑う方法を解説しています。ぜひご覧ください。
住吉 雅美