「いつか一太刀浴びせねばならぬ」…仮想敵の陣営に潜入した若き研究者が、「カブトを脱ぐ」ハメになった「まさかの気づき」
種の起源や進化、繁殖、生物多様性などについて研究を行う「進化生物学」。気の遠くなるような長大な時間の経過のなかで、今日の多様な生物世界にいたるまでのさまざまな変化を読み解く、興味深い学問です。 【画像】ポツンと浮かぶ…離島の生物種がめちゃくちゃ貴重なワケ そうした「進化生物学」の醍醐味を描いた一連のエッセイ的な作品をご紹介していきましょう。 今回は、混迷する進化学において、古生物の研究から学問の道に入った著者の若き日を振り返ります。後年、師と仰ぐ生態学者・河田雅圭博士との出会いと確執を通して、自らの研究の道のとるべき方向に見出し、さらには人とのコミニケーションにとって大切なことに気づかされるのでした。 *本記事は、ブルーバックス『進化のからくり 現代のダーウィンたちの物語』を再構成・再編集してお届けします。
黒歴史
今は、高校で生物を選択すると、進化について一通り学ぶ。どの教科書にも、自然選択や遺伝的浮動など、基本的な仕組みの解説があり、私たち人間の様々な形質にも、自然選択が働いてきたことが説明されている。世界で最も優れた生物教科書とされ、国際生物学オリンピックの推薦図書でもある『キャンベル生物学』は、昔から進化の視点を柱に据えているくらいだから、これはとりたてて特別なことではない。 だがかつて日本では、進化は高校では学ばなかった。それどころか1980年代は、進化ーー突然変異、自然選択、遺伝的浮動を中心原理とする総合説を扱う講義は、大学ですら稀だった。当時、私の知る生物学の教授は、進化なんてホラ話、まともな研究者は相手にしない、と断言していた。 なぜ日本の進化学は、こんな扱いを受けるほど崩壊していたのか。原因は主に三つ。科学への政治介入、海外動向への無関心、そして権威主義だ。 進化学は戦前から様々な形で政治思想の影響を強く受けてきた。戦後まもなく、獲得形質の遺伝を主張し、メンデルの遺伝法則と自然選択を否定する、旧ソ連のルイセンコ説が日本に上陸し、大流行した。この学説は実用主義を標榜する一方、科学的な証拠に基づかない疑似科学であった。だが旧ソ連では共産党のイデオロギーと結びつき、政治活動として広まった。そして共産党は対立する科学者らを次々と弾圧、粛清した。 日本では遺伝学、進化学、そして古生物学でルイセンコ説が席巻、政治活動となり激しい論争を招いた。しかし1960年代には、分子生物学の劇的な発展により、遺伝学の領域からほぼ姿を消した。 一方、進化学、特に古生物学では80年代初めまで勢力を維持していた。彼らは総合説に加えて、プレートテクトニクスも親米的だとして否定し、対立する研究者を政治的に排除した。こうした政治、権力、思想との親和性ゆえ、生物学者の多くは進化学を非科学的として遠ざけた。そのため当時欧米で急速に発展した、厳密な実証主義に基づく新しい進化学から、取り残されてしまったのである。 ある分野で偉大な業績を挙げた研究者が、他分野で大胆な説を述べ、それをメディアや一般人が持て囃す結果、その分野に混乱が起きるーーよく見かける図式だが、これが60年代以降、生態学で起きた。今西進化論である。「種社会」なるものを単位とした棲み分けによる進化ーーそう主張するこの日本独自の進化論が、欧米の総合説にとって代わるとして、メディアや文化人の人気を集め、一世を風靡した。 だがその論は、当時の進化学の世界標準からみて、到底評価に耐えるものではなかった。一方、当時世界の進化学で、本物の旋風を巻き起こしていたのは、遺伝学者・木村資生(きむら・もとお)博士の中立説だった。だが当時の日本では、その意義は正当に理解されていなかった。 加えて80年代の日本では、ポストモダン思想と生物学の合体から生まれた特異な進化説が、総合説を否定する論陣を張った。さらにパレオバイオロジーと称する古生物学の一派も論戦に参入した。70年代、米国で「古生物学の革命」を叫び結成された流派である。 彼らは、古生物学が扱う化石記録が示す進化は、生態学や遺伝学に基づく進化理論だけでは説明できない、と主張し、適応以外のプロセスや全体論的な考え方を重視して、総合説批判を展開した。 一方、総合説に立つ正統派の進化生態学も、社会生物学の影響を経て、態勢を整えつつあった。伊藤嘉昭(いとう・よしあき)博士のもとに若手の精鋭が集まり、海外の一線の研究者との交流を進めるなど、世界標準を目指した研究が始まっていた。 かくして80年代の日本の進化学は、風雲急を告げる黎明期に、正統派、反正統派が入り乱れ、魑魅魍魎が跋扈(ばつこ)する、無法地帯の様相を呈していたのである。