『虎に翼』三山凌輝演じる直明とほぼ同じ歳…父が語っていた「戦後」の若者たちのリアル
「空襲の遺体処理」を少年たちも手伝わされた
父の話の中で記憶に残っているのが、3度の空襲体験でした。最初は、1945年1月27日に東京中心部で起きた空襲でした。このとき父は用事があって有楽町に向かっていたのですが、向かっている電車の中で空襲が起きたことで、急ぎ引き返し生きながらえたと話していました。現在の銀座や東京駅八重洲口周辺、京橋などを狙った空爆だったそうです。 その後、3月9日未明から10日かけて東京大空襲が起きました。父が住んでいた地域の近くも空爆されましたが、ギリギリのところで難を免れたようです。あまりの数の空爆で、東側の空全体が夜なのに昼間のように明るくなり、火の海になっているところがオレンジ色に染まり、空には信じられないほどの数のB29の姿がはっきりと見え、とにかく恐ろしかったと……。巨大な炎が今にも自分の住んでいる地域にも届きそうで、「これでは東京中が丸焼けになってしまう。今回ばかりはダメかもしれない」と必死で防空壕に逃げたと話していました。 空爆はまだまだ続きます。父にとって最も身近だった空襲は、1945年5月24日から25日に東京の荏原、品川、大森、目黒区などで起きた「城南大空襲」でした。東京大空襲以外にも東京の各地で空襲が起きていて、父の話を聞いた後読んだ資料によると、3月9日未明から10日にかけて起きた東京大空襲では、B29が300機で東京を夜間無差別爆撃し、5月24日の城南大空襲では、東京大空襲よりも多い520機が爆撃したと記録が残っています。当時父は、荏原区(現在の品川区)に住んでいたので、ダイレクトに空襲に遭ったのです。 父が話してくれた戦時中の話の中で、私が忘れられないのが、空襲による遺体処理の話でした。父もこの話を私にするのは少し躊躇いがあったのか、私が成人してから話してくれました。 大空襲後、町には焼けただれた遺体が多く残っていたといいます。遺体を集める仕事は兵隊さんや町に残った男手が中心だったそうですが、その頃になると成人男性の多くが徴兵されているので圧倒的に男手が足りなくて、父も含め、少年たちも担い手となりました。お寺の境内や空いている通りや広場、河原などに遺体を運んだり、弔うのを手伝ったそうです。「人が燃えるにおいだけは一生忘れられない……」と話していました。口には絶対に出さなかったそうですが、「一晩でこんなにもたくさんの人が亡くなってしまうとは……。自分たちには刃向かう武器も身を守る手段もないのに、戦争に勝つわけがない。兵隊に行ったら自分も死んだな」と絶望を感じたそうです。 そして終戦を迎え、父は戦前戦中に両親を亡くしていたので、長男として残った家族を養うために、戦後しばらくの間、進駐軍で働き始めたそうです。そのいきさつ、進駐軍でどんな仕事についていたのかは記憶がさだかではないのですが、そこで食べ物も音楽もスポーツも豊かにあり続けていたアメリカを目の当たりにして、衝撃を受けたそうです。たまに、「家族に持って行け」と大きな缶詰を米兵からもらうこともあったそうですが、開けると、中からシチューが出てくることもあれば、全部がバターだったときあったといいます。つけるパンも何か作る小麦もないのに大量のバターをもらって途方に暮れたそうですが、たまにもらう缶詰はアメリカの豊かさを知るだけでなく、食料面からも大きな救いになっていたと話していました。