40年前から大流出 世界で最も迫害された“民族”ロヒンギャなぜ解決しない?
ミャンマーの治安部隊から逃れたロヒンギャ難民が大量に流出している問題について、当事国であるミャンマーに対し、国際社会から厳しい目が向けられています。14日にはマニラで開かれていた東南アジア諸国連合(ASEAN)関連の首脳会談などに参加していた安倍首相が、ミャンマー国家顧問兼外相のアウン・サン・スー・チー氏と会談し、ロヒンギャ難民の帰還実現を求め、状況改善のための取り組みを後押しすると約束しました。15日には米国ティラーソン国務長官もスー・チー氏との会談で、ロヒンギャ迫害の調査を求め、人道支援援助を表明しています。 しかしロヒンギャが難民となって隣国へ大量に逃げ込む事態は、およそ40年前から繰り返されています。なぜ、ロヒンギャ問題は解決しなかったのでしょうか。
70年代、91~92年にもバングラデシュに大量流出
ロヒンギャは、ミャンマー西部ラカイン州を中心に暮らすイスラム教徒少数民族といわれています。 もともとイギリス領時代、多くのイスラム教徒がミャンマーに入ってきました。その後、第2次世界大戦中、代わって占領した旧日本軍がアラカン(現ラカイン)で一部仏教徒を武装化させ、イギリス軍は武装化したイスラム教徒を侵入させたことで、両者に激しい対立が生じました。 そして1948年、ビルマ連邦(のちにミャンマー)が独立します。ビルマは圧倒的に仏教徒が多く、その後、62年クーデターで発足した軍事政権も、仏教を根幹としたビルマ式社会主義を推し進める中で、異なる宗教のさまざまな少数民族が迫害されていきました。 中でもロヒンギャについては、自国民の少数民族とは認められず、78年に政府は不法移民排斥を目的とした大規模な住民登録作業をロヒンギャが暮らすアラカンから開始。逮捕、迫害を恐れた約20万人が隣国バングラデシュに逃げ出し、国連による大規模な救援計画が実施されました。しかし、帰還に抵抗する難民とバングラデシュ側の衝突で数百人の死者も出る事態が起こり、79年末にようやく18万人以上がビルマに帰国しました。 次に、大量の難民が発生したのは91~92年にかけてです。ミャンマー政府による土地の接収、強奪や強制労働などから逃れようと、再び約25万人もの人々がバングラデシュに押し寄せました。同国のコックスバザールには国際支援機関による難民キャンプが約20カ所設置されましたが、バングラデシュも、ロヒンギャを自国民と認めず、結局、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の帰還事業によっておよそ23万人がミャンマーへと戻りました。