『お引越し』過去を抱きしめて未来へと疾走する、11歳の女の子の冒険
『お引越し』あらすじ
京都に住む明るく元気な小学6年生、レンコ。父ケンイチが家を出て、母ナズナとの二人暮らしが始まった。ナズナは新生活のための規則を作るが、レンコは変わっていこうとするナズナの気持ちがわからない。離婚届を隠したり、自宅で籠城作戦を決行したり、果てにはかつて家族で訪れた琵琶湖への小旅行を勝手に手配する…。
第二期・相米慎二を告げる記念碑的作品
ずっと、相米慎二の映画が謎だった。そして今も、謎のままだ。それは、混乱と呼んでもいいし、戸惑いと言い換えてもいい。 なぜ『セーラー服と機関銃』(81)は、天下無双のアイドル・薬師丸ひろ子の相貌を、クローズアップで切り取らないのか。なぜ『ションベン・ライダー』(83)は、材木の集積場で繰り広げられるアクション・シークエンスを、あえて望遠レンズで撮り続けるのか。なぜ『雪の断章~情熱~ 』(85)は、時間も空間も超越するような異様なワンシーン・ワンカットの長回しを、オープニングからカマしてくるのか。 両眼はしっかりとスクリーンを捉えているはずなのに、過剰な作劇と過剰な演出によって、「自分はいま何を目撃しているのか?」と果てしない自問自答を繰り返してしまう。その戸惑いが、映画を何度も反芻させるスイッチとなり、いつしか相米慎二という怪物に対する畏敬の念となっていった。 しかも彼の映画は、ティーンエイジャーの役者たちによるしなやかな身体の躍動によって、ある種の生々しさすらも獲得している。永瀬正敏、工藤夕貴、斉藤由貴、牧瀬里穂。彼ら/彼女らが、走ったり、叫んだり、ずぶ濡れになったりする瞬間を、相米慎二はフィクションではなくドキュメンタリーのような眼差しで、スクリーンに焼き付けていく。 彼が周到に設計した、現実とも空想ともつかない摩訶不思議な空間のなかに、生身の役者たちがぽんと放り出され、格闘しているような感覚。実際に相米慎二の現場では、朝から夜まで延々とリハーサルが繰り返され、何度もテイクが撮り直された。薬師丸ひろ子は、「とにかく自分の肉体と切り離せなくなるくらいまでやらせることによって、非日常を現実に体得するまで、そう見えるまで、追い詰めていました」(*1)と回想している。 彼は十代の若者に芝居をつけるのではなく、徹底的に追い込み、自らも同じ目線で並走することで、ノンフィクションがフィクションを乗り越えていく奇跡を、カメラに収めようとする。その結果、突飛で歪な、異形の映画が出来上がる。少なくとも80年代の相米映画は、そんなフィルモグラフィーで埋め尽くされていた。 やがて90年代に突入すると、彼の映画はエキセントリックさが後景化し、角が取れて丸みを帯び、滑らかさとたおやかさを感じさせる作風に変化していく。児童文学作家ひこ・田中の同名小説を映像化した『お引越し』(93)は、第二期・相米慎二を高らかに告げる記念碑的作品と言っていいだろう。相米本人も、これまでとは異質の映画であることをはっきり認めている。 「『お引越し』は、大阪の讀賣テレビはじめ関西の人たちがお金を集めて“好きな映画を好きなように作ってください”ってことでスタートした企画だったんです。映画の環境にはいない人たちが、作る場を提供してくれて、今までとは違う空気を作ってくれた。みんないい人だし彼らだけは裏切れないという気持ちが強くあって、そのことが自分というものをあまり強く出さずに、と言うか自分の殺し方をそこそこにうまくいかせて、あの映画になったという感じがある」(*2)