「わからない」がわからせてくれること
●カフカの「断片」とは?
さて、そのカフカには短編小説もあれば長編小説もある。そしてじつはその他に、膨大な断片がある。 断片とは、短い、未完成な、小説のかけらだ。 普通、未完成なものより完成したもののほうがいい。かけらより、全体のほうがいい。未完成の飛行機に乗りたい人はいない。花瓶が割れてかけらになったらがっかりだ。 しかし、カフカの場合、未完はむしろ魅力となる。「未完であるということは、カフカの作品にとってきわめて特徴的である、と言うよりもむしろその本質的な性格である」と『決定版カフカ全集』(新潮社)第2巻の訳者解題で前田敬作も書いている。『アメリカ(失踪者)』『審判(訴訟)』『城』という3つの長編も、すべて未完だ。 「永久の未完成これ完成である」(『【新】校本宮澤賢治全集』第13巻上「覚書・手帳 本文篇」筑摩書房)という宮沢賢治の言葉が、カフカにもあてはまる。 「最後まで書くことがカフカにとって至上命令ではなかったから、読者は書き手が陥る『この小説を完成させねばならない』『この小説を完成させるためには(途中で前に進めなくならないようにするためには)ここではこうはしないでおいて、こういう風にしておこう』という義務的作業に基づく計算につき合わされることがない」(保坂和志『言葉の外へ』河出文庫) そして、小さなかけらであることも、また魅力となる。俳句や短歌がそうであるように、小さいからこそ大きな世界を内包できることもある。葉っぱの上の小さな水滴が、世界を映し込むように。松尾芭蕉は俳句について「物の見えたる光、いまだ心に消えざる中(うち)にいひとむべし」という言葉を残している(土芳『三冊子』『新編日本古典文学全集88』小学館)。「現実をとらえることができたとき、そのイメージのひらめきが消えないうちに、書きとめろ」というような意味だろう。カフカも、なるべく中断なしに、一気に書こうとした。頭のなかにあるイメージを、いますぐ、なるべく早く書く。短さには、一気に書けるというよさもある。 もちろん、断片の中には、たんなるメモとか、うまく書けなくてそのままになったものもあるだろう。しかし、その多くは、“もともと断片というかたちでしか書けなかったもの”だと思う。起承転結などの型には収まらず、言葉数を増やせばかえってぼやけてしまう、純粋な結晶のような作品たち。 カフカ自身も、ある自作について、こう書いている。 「これは断片であり、またいつまでも断片のままということになるでしょう、こうした未来形が、この章に最大の完結性を与えるのです」(クルト・ヴォルフへの手紙 1913年4月4日『決定版カフカ全集9』吉田仙太郎訳 新潮社) これまで断片だけを集めた本が、全集以外にはなかった。それはとてももったいないことだと思い、文庫という手にとりやすいかたちでまとめてみたのが、『カフカ断片集』だ。カフカを初めて読む人にも、短編や長編は読んだことがある人にも、新しいカフカの魅力と出合ってもらえたらと願っている。