「ここじゃ無理だよ」。横浜のニュータウンで評判の鮨屋の店主が、街行く人に心配されても、この街で鮨屋を開きたかった理由【店主の休日】
「たぶん職人のイメージはそのときに出来上がってた気がします。自分も自然に、手に職をつけて、やっていくんだろうな、と思うようになってました」 高校を卒業して調理師の専門学校に進んだ林田さんは、20歳のとき、都内の老舗の料亭に就職した。晴れて料理人の道にデビューしたが......、 <ブラーノブラーノの名物にレッドホットチキンというのがある。タンドリーチキンに、フライドチキンと焼鳥の旨いところをプラスしたような、驚くべき旨さの鶏である。辛味と香りにうまみがあって、鶏の焼き加減も絶妙に汁気をたくわえながらすっきりとしている。キロ単位で食えそうである。スパイス使いに圧倒されたが、それもそのはずで、オーナーの祖母はインド出身だという。本格派と感じたのは当然のことだった> 順調に料理人の道に進んだ林田さんにとって最初の壁が、すぐに立ちはだかった。 板前には階級があって、最初は一番格下の「追い回し」と呼ばれる立場になる。出勤は朝一番、帰りは一番最後だ。林田さんも、追い回しからそのキャリアをスタートさせた。朝イチ出勤、そして一番最後まで店に残り、家に帰る。 「同じ専門学校から5人まとめて就職して、皆、店の用意した寮に入りました。ぼくは先輩とふたり部屋だったんですが、この先輩がヘビースモーカーで、タバコをずっと吸いながらレンタルビデオを毎晩ずっと見るんですよ。これが、なかなかきつくて、布団をかぶってMDプレーヤーで音楽を聴いてしのいでいました」 果たして先輩はどんなビデオを見ていたのか......。ちなみに、その頃、林田さんは、よくglobeを聴いていたらしい。いまでも、 「タバコの煙がどうの、っていう歌詞の歌があるんですが、あれを聴くと、今でも胸がしめつけられます」 と、林田さんは笑う。ただ、ハードだったのは住環境だけではない。平成も10年代になろうかという、この時代、厨房は、まだ昭和だった。 「昔気質というか......ちょっとでもミスをすると親方が包丁を投げるんですよね。ペティナイフみたいのを投げて、それが、まな板にささって、ビヨヨーンって。あと、高下駄を履いたまま蹴るんです」 ーーじゃあ、親方が休みの日は天国だったんじゃないですか? 「そういう時の責任者である、"煮方"の人は、お玉で殴る人でした」 お玉で殴るというとピコピコハンマーのような楽し気な想像をしてしまったが、実際は流血もザラだったらしい。和食のお玉は洋食のそれとちがって底が平たい。あれで、やられたら......。おそろしい。そんな苦難の日々をなんとかしのいでいたある日、先輩たちからある計画を持ちかけられた。 「レンタカーを借りたから、今夜逃げるよって先輩たちが言うんです。先輩たちも我慢の限界だったんでしょうね。それを聞いて、だったら僕らもって、同期全員で置き手紙をして逃げました」 置き手紙をするところに、丁寧な人がらを感じた。とはいうものの、集団脱走となれば斡旋した専門学校でも問題にならないはずもない。学校からいろいろと聞かれたが、林田さんたちが、その過酷な現場を伝えると学校も納得。その料亭への就職の斡旋は無くなったという。