「ここじゃ無理だよ」。横浜のニュータウンで評判の鮨屋の店主が、街行く人に心配されても、この街で鮨屋を開きたかった理由【店主の休日】
■「妻とは、どっちが先につぶれるか、みたいな出会いでした」 さて、浅草の実家にもどった林田さんは、こんどは鮨居酒屋でアルバイトをはじめたところ、ほどなくして、専門学校から舞浜にあるホテルで鮨職人の求人があることを伝えられた。鮨居酒屋から本格鮨へと、とんとんと進路は展開し、まさに鮨との運命の出会いをとげた......のだが、ここでも、また料理人残酷物語はつづいた。今度はフィジカルではなくメンタルにひびくしごきだった。 「親方は、ちょっと気に食わないことをすると、1ヵ月とか2ヵ月とか、一切口を聞いてくれなくなる人でした」 上司が部下を無視.....こわい話だ。だが、林田さんはめげなかった。 「親方って、昔の職人なので、そろそろ仕事も終わりかなっていう時間、だいたい20時過ぎくらいに、湯呑みで酒を一杯出してしまうんです。『おつかれさまです』なんて言って渡すと、親方も気をよくして呑んでしまって気分よくなって帰っちゃうんですよ。それから、自分たちの時間だ、って。素材から包丁から、あれこれ、みんなで、いろいろ勉強するんです」 舞浜で「上の人のハンドリング法」をうまく使いこなしながら、研鑽をつんでいった林田さんは、さらに腕をあげるため、新たな舞台に六本木の鮨屋を選んだ。いろんな業態の店を持つグループの鮨店で、その店の女将さん候補としてやってきたのが、現在の妻なのであった。 「おたがいよく呑むので、どっちが先につぶれるか、みたいな出会いでした」 最高なのであった。こうして人生の伴侶をえた林田さんは、六本木で3年ほど勤めた後、再び働く場を移した。旧ホテル日航東京、現在のヒルトン東京お台場だった。 <エスニックパクチーサラダというパクチー山盛りのサラダと、しゃきしゃきのパクチーが心地よく、香りも豊か。カメムシソウなんて名前をつけた人にこそ食べさせたい> 「いやあ、昔はいやだったんです。でも、勤め先が外資にリブランドしたとき、外国からのお客様も増えたので、カリフォルニアロールのようなお寿司も出すことになったんですよ。それで、最初は、ちょっと首をひねりながら具にパクチーをつかっていたんですよね。なんだかなあと思いつつも、毎日食べていたんですが、ある日、『あれ、これイケる』となりまして」 破顔する林田さん、たしかにモリモリとパクチーを食べている。ちなみに、いまの店「はやたか」は、ロールなどは出さない、肩の力は抜けているけれどストイックな鮨店である。