「ここじゃ無理だよ」。横浜のニュータウンで評判の鮨屋の店主が、街行く人に心配されても、この街で鮨屋を開きたかった理由【店主の休日】
で、こういうニュータウンらしい街並みから、人はどんな飲食店を思い浮かべるのだろうか。街が新しいから老舗があると思えないし、縄のれんや赤提灯も繁華街というわけでもないから、あまり多くは無さそうである。いっぽうで、ちょっとあたりを見回せば、いわゆる回る寿司屋はゴロゴロ存在している。 そんなエリアに、果敢にいどんだ鮨屋が「はやたか」だ。店主の名は林田貴志(はやしだ・たかし)さんといって、その愛称が店名の由来である。鮨職人として20数年をかさねて、満を持して、ニュータウンに、きちっとした鮨屋を開いた。 いつもにぎわっていて遠方から来る客もすくなくない。まばゆいくらい磨かれた白木のカウンター越しに、美しい握りが、そよ風をともなって目の前に出されると、こちらは、ただ、すいすいといただく。そして、しみじみと、鮨は旨いなあ、いや、旨い鮨だなあ、とうなる。そういう店だ。 その日、「はやたか」店主の林田さんと待ち合わせたのは、「はやたか」がある、センター南駅近くにある、ブラーノブラーノという店だった。はやたか店主・林田さんの行きつけで、インド料理からイタリアンまでなんでもござれ、おいしい多国籍料理とワインを楽しめるという界隈でも評判の大人気店である。私は初めての訪問だったけれど、入り口を入った途端に、 「こりゃ間違いないな」 と、思ってしまった。スタッフの人の挨拶が、気持ち良くて、それでいて押し付けがましさが全然無い。バランスがいいのだ。これ、案外難しい。
■「お玉って、あっさり流血するんですよね」 休みの日にはよく来るという林田さんと向かい合って席に着くと、林田さんが言った。 「店じゃそうそうワインは呑めないし、休みのときは、ここへ来ていろいろ勉強するんです」 休みの日にくつろぐ店でも勉強するんですか、と言ったら、林田さん、がははと笑った。 「だいたい酔っぱらっちゃって、ひとりじゃどこ行っちゃうかわからないから、呑むときはいつも妻と一緒なんです」 いきなり、スライダー気味の愛妻家発言がズドンとこちらの心のミットに放り込まれる。これが休日、である。「いいなあ、そういうの」と、頷く。 <まずは白ワインで乾杯とあいなり、あわせるのはポテトサラダと生ハム・パテ・テリーヌ盛合せにした。ポテトサラダは、ねっちりとしつつも、ホクホク感を残した口当たりのいいタイプ。ハムと胡瓜というオーソドックスな具に安心感があって、粒マスタードのアクセントがきいていて良い。前菜の盛り合わせはハモンセラーノやオリーブがいい塩梅に盛られていて、こちらもグイグイお酒がすすむ> 「小学4年生のとき、誕生日に中華鍋と柳刃包丁を買ってもらったんです」 店主のみなさんからは、いつでも、その生い立ちから話を聞くけれど、こんなにいきなり料理人らしいことはなかなかない。林田さんは1976年生まれ。浅草で着物の紋を入れる職人の父親と専業主婦の母の間に次男坊として生まれた。10歳の頃というと『美味しんぼ』が大ブームになりつつあった頃で、林田さんも熟読していたそうだ。ただ、そもそも料理に関心をもったきっかけは、 「父は、休みの日になると、料理をしてくれたんですよ。フランスでガレット、スイスだとロスティと呼ばれるような、ジャガイモを千切りしてカリカリに焼いたのとか、ちょっと変わったものを作ったりして、これが楽しみだったんですよね。それから、父が家で晩酌をするんですが、母はすこしずつ、何品がツマミを作るんです。それを私も父と一緒になってつまんだり、台所で母の手伝いをしたりしたのが、たぶん原点だと思います」 林田さんが小学生の頃、日本はバブル期。結婚式も派手になっていった時代だ。紋をいれた留袖の需要も高かったから、林田さんの父親は日曜にもよく仕事にでた。そんなときは、林田さんも父にくっついて職場にもよく行ったという。