女友達のSNSが「子どもの写真」ばかり… “産まない私”が距離を取って気づいたこと
子供を生き甲斐にすれば「自分の可能性一本」のゲームから降りられる?
私が母になったとしても、「すべてを手に入れた人」になるには相当な根性を要するだろうなあと思う。母になって、「役割ができた」ということに救われるという気持ちも分からなくはない。自分の「個」の面だけで、仕事での成果や自己実現を追い求めて生きるということも、時にしんどいのだ。自分個人の可能性を信じられなくなったときに行き詰まりを感じたりもする。 子供を持つことで、子供という他者を育てることを生き甲斐にしてしまえば、「自分の可能性一本で進むゲーム」から降りられる。しかし、やはり子供は他者なので、他者を育てているとしても自分の人生の操舵者は自分なのである。 母という「役割」に全ベットし、子供に多くを託しすぎてしまうことは、自分にとっても子供にとっても危険だ。母になっても「個」の面は守っておく必要がある。どんなに「母」という役割が「個」を侵食してきたとしても。「個」の面を守るということは、別に仕事や自己実現に励むことでなくてもよいと思うのだ。ただ自分が個人として、自分の名前で呼ばれる場所を守れれば。母親になる前に好きだったものごと、考えていたことを思い出せるような、役割から解放される時間があったらいい。 それは趣味に打ち込むことかもしれないし、好きなときに友達と飲みに行くことかもしれないし、いろんなやり方がある。昔から「父」には許されてきたことだ。私は母にはならないかもしれないが、「母」になった女友達を名前で呼ぶ存在であり続けたいと思う。彼女たちが母になる前からどんな人間か知っている。その人が母になったかどうかは私にとってはさして重要なことではないのだ、本当は。 母じゃない彼女たちと友達になったのであり、友達になった部分は「母」になったあとも彼女たちから消えてなくなったりはしない。彼女たちを「母」という役割が侵食してきたとしても、私は「ママ」や「お母さん」になる前の名前で彼女たちを呼び、好きなドラマや仕事の愚痴や、ダイエットや美容医療なんかの話をし続けるつもりでいる。 子育ての愚痴も、役に立つか分からないけどできる範囲で聞くし、私の「子なしは肩身が狭い」という愚痴も聞いてほしい。あなたの「個」の面を、私はちゃんと覚えているよ。あなたは本当はこういう人だったんだよ、ということを、たまに思い出してもらうために、「ママ友」じゃない「女友達」でいたいと思うのだった。 *** この記事の前編では、同じく『産む気もないのに生理かよ!』(飛鳥新社)の内容より、「産みたくない女性」の当事者でもあるライター・月岡ツキ氏のエッセイをお届けする。「子供を持つ・持たない問題」を日々、自問自答する中、「親子の継承」がテーマでもある『進撃の巨人』の最終回を見た同氏は、寂しさを感じてしまう。その理由とは――。
【著者の紹介】 月岡ツキ(つきおか・つき) ライター・コラムニスト 1993年生まれ。大学卒業後、webメディア編集やネット番組企画制作に従事。現在はライター・コラムニストとしてエッセイやインタビュー執筆などを行う。働き方、地方移住などのテーマのほか、既婚・DINKs(仮)として子供を持たない選択について発信している。既婚子育て中の同僚と、Podcast番組『となりの芝生はソーブルー』を配信中。マイナビウーマンにて「母にならない私たち」を連載。創作大賞2024にてエッセイ入選。 X(旧Twitter):@olunnun デイリー新潮編集部
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