女友達のSNSが「子どもの写真」ばかり… “産まない私”が距離を取って気づいたこと
母になった友人と距離を取ったあと、気付いたこと
SNSの子育て投稿にリアクションしなかったし、連絡も控えた。会っても子育ての話になるだろうし、そうなったら私に言えることはあまりないし、なにより「母になって変わってしまった彼女」に会うのが嫌だったのである。 もう昔のあの子ではないのだなあと実感して寂しくなるのが嫌で、必要以上に接触しないようにした。年を追うごとに子供を持つ女友達も増え、彼女たちの「母になっても変わらない部分」をちゃんと認識できるようになり、また彼女たちも「自分の母になる前の部分を知っていてくれる女友達」の存在を喜んでくれるということを知って、自分の中の「子供を持った女友達への心理的距離」はかなり縮まった。 あの先輩は「あっち側」に「なってしまった」のではなく、戦場が変わっただけなのだ。私たちは子供を産んだか産まないかで分断されるべきではない。そう気づけたのは大きな収穫だったのだけど、私の中の「母になったら人は変わらざるを得ない」という認識が、30代になって強固になったのも、また一方で明らかだった。 どうしたって出産と子育ては人生の一大事なのだから人格に影響があって当然なのだが、問題はそこではない。常に他者をケアしながら生きる暮らしは、メンタル的にもフィジカル的にも自分の「個」の部分が削られていくものなのだと、母になった人たちとかかわる中で理解した。 子供の前では絶えず「母」として振る舞っているので、本来の自分に戻れる時間がない。自分が母になる前、何が好きでどんな人間だったのか忘れてしまった。いつの間にか「役割」が自分の存在を凌駕し、家族や子供の都合を取っ払ったときに自分がどうしたいのかが分からない。これが「幸せ」なのかもしれないけど、なぜかずっとつらい。そんな話をさまざまな場所で耳にした。
「母」をやりながら「個」を失わない人の“真相”
一昔前に『名前をなくした女神』という、ママ友同士の人間関係を題材にしたドラマがあったが、今でもそのタイトルをずっと覚えている。母になると自分の「個」としての名前は失われ、「母」としての役割がアイデンティティになっていくという現象をよく表しているタイトルだったからだ。 母になって得たであろう幸せだってたしかに大きく、代え難いものなのだと思うけれど、それとこれとは別の場所に、彼女たちが「個」を失っていく悲しみもある。それは「大きな幸せを得たのだから、その分何かを失うのは仕方ないこと」と簡単に切って捨てられるものではないと思う。 そして私はやはり「個」をある程度失うことを覚悟してでも子供を持とう、とは思えないのだった。「母」をやりながら「個」を失わないよう奮闘する人もいる。「母」の面と「個」の面を上手く使い分けて、自分の時間を確保して、趣味や仕事や自己研鑽に励んでいる人。昨今はそういう人が「すべてを手に入れている人」として羨望される。 しかしながらそういう人は「めちゃくちゃお金がある」か、「めちゃくちゃ馬力がある」か、「実家などのなんらかの手厚いサポートがある」か、はたまた「子供が丈夫だったり利発だったりして手がかからない」のどれか、もしくはそれらをいくつも持っていたりするので、誰にでも再現性があるとは言えない。 「この人、お子さんを育てているのにいつも身綺麗で、仕事もガンガンして、語学学習もして、すごいなあ。もしかしたら仕事と育児と趣味の両立って、言うほど難しくなくできるもんなのかな?」と思ったら、毎朝4時に起きても元気でいられる体力の持ち主だったり、何かのタスクを外注する金銭的余裕があったりする人だった、ということがよくある。 そういう人だって最初からそういう仕上がりだったわけではなく、努力の末に手にしたものだとは思うのだけれど、ここまで条件が整わないと「母」をやりながら「個」を守るということはできないのか……と、やはり気が遠くなる思いがするのだ。