古本屋を巡り、顧みられなくなった作品、作家を生き返らせた九大大学院教授没後20年 教え子や研究仲間を支える「清新な光景」
【花田俊典の小さな場所】
分厚くて、グローブみたいな手だった。筑紫女学園大教授の松下博文(67)が思い出すその手の持ち主は花田俊典(1950~2004)。松下にとって、九州大大学院の先輩に当たる。 【【写真】2002年に出版された「清新な光景の軌跡」。A5判、788ページのボリュームがある 花田は九州大大学院教授を務めた文芸評論家である。代表作は九州、沖縄、山口の文学者を掘り起こした「清新な光景の軌跡-西日本戦後文学史-」。788ページの大著だ。「これで生き返った作家や作品は多い」と松下は言う。顧みられなくなった作品でも、内容や作者の生きざまにまだ見ぬ景色を見いだしたのが花田だった。 仕事を支えたのが古本屋巡りだ。よく同行した長野秀樹(66)=長崎純心大非常勤講師=は「自分の足で歩き、目で見て、手で触れることを実践した。既存の価値観に頼るのは楽だが、それはしなかった」 本は単なる研究材料ではなく、愛する対象だった。古本屋巡りの後にコーヒーをすすりながら、資料を発掘する愉(たの)しさを語る花田は、ときに本に頬ずりせんばかりだったという。傷んでいれば修繕し「成仏させてやる」と声をかけてカバーを掛けた。学生時代から個人誌を手作りし、長じてから編集の中心にいた文学批評誌「敍説(じょせつ)」は装丁やレイアウトにも凝った。「指や肌の感覚で考える手仕事の人だった」と松下。その花田が53歳の若さで急死してから、6月2日で20年を迎える。 □ □ 花田は常に、何かを大づかみに意味づける言葉ではなく、現実に根ざして吐き出される言葉の側に立った。小さくささやかでも、すくい上げようとした。その手で投じたテーマの一つが原爆を表現した文学を巡る問いだ。 「敍説」で特集「原爆の表象」を組んだのは1999年。原爆について語ることが「被爆の悲惨さだけにとどまり、多様でない」と問題提起した。特集には長崎で被爆した詩人の山田かん(1930~2003)のインタビュー記事もある。山田は、随筆「長崎の鐘」などを残した医師の永井隆(1908~51)を批判した人物。被害を克明に記録しつつ原爆を神の試練として宗教的なイメージを発信し、映画のモデルにもなって広く知られた永井に対し、山田は「一種の権威」とも言った。惨禍を文学で継承する営みは欠かせないが、表現が硬直化しているとすれば求心力を失い、何かを見過ごしてしまう。 この特集で、九大大学院に在籍していた畑中佳恵(49)=福岡大人文学部准教授=は、書いたものが活字になる体験を初めてした。 「誰か、新聞をめくる者はいないのか?」 ゼミに集まった院生を前に、タバコの煙を吐きながら花田が口にした。与えられたテーマは「原子について何でも良いから調べる」。おずおずと手を挙げた畑中は真夏の図書館の書庫で、朝日新聞の縮刷版を一枚一枚めくった。1912~52年の「原子」に関する記事をリスト化し、特徴を整理。戦中は原子力の兵器利用を報じる記事もあったが、広島と長崎への原爆投下と敗戦を経た直後から「平和的利用」への言及が見られた。また、サンフランシスコ講和条約が発効して日本が独立する52年までの間、原子力発電に期待する記事が目立ってきた。論文は花田によって「敍説」に掲載された。 「無名の院生の論文が載ったのは衝撃だった。思い切って可能性に懸けてくれる先生だった」と畑中は振り返る。葬儀では教え子を代表して弔辞を読んだ。 花田の死から7年後、川崎市で子育ての日々を送っていた畑中は、不安のただ中にいた。東日本大震災と東京電力福島第1原発事故が発生し、放射能汚染の恐怖にさらされていたのだ。 食べ物は安全か、外出して良いのか。正解が分からない。始めたのは、関連の社会的、文化的な出来事や情報を記録すること。政府発表や新聞、雑誌の記事、小説や詩、漫画、音楽、著名人の避難、計画停電、そして自ら計測した放射線量。手が届く範囲の「私に見えていたのはこういうことです、という記録」は、後に年表として発表した。支えてくれたのは、いつか聞いた花田の言葉だった。 「調べて書けば大きくは間違わない」 □ □ 花田が研究、議論の場として2001年に立ち上げた「原爆文学研究会」は死後も存続し、これまで71回の研究会を重ねた。国内の小説や詩だけでなく、映画、美術、海外文学も対象とし、花田を直接知らない若い世代も加わっている。 大学院生だった発足当時から事務局長を務める中野和典(49)=福岡大人文学部教授=は、恩師の死後、研究会を存続すると決めた。報道機関に「遺志を継ぐのですね」と問われ、少し違うと思った。 「やり残した仕事として継ぐことは望んでいないと思う。原爆に関する問いを自分の問題として引き受け、何にもよりかからず自分の足で立とうとする姿勢こそ学んだ」と思うからだ。 地に足をつけ、自らの手と目で「清新な光景」を求めた花田の仕事や言葉は、教え子や研究仲間を支え続けている。 (敬称略) (諏訪部真) × × 2004年に53歳で死去した花田俊典さんは、現在も続く研究会や雑誌を生み出し、教え子や同僚など多くの人に慕われる。没後20年に合わせ、その仕事と人物像を振り返る。