初期国勢調査周知に「大大阪」の芸能人が活躍してた!?
初期国勢調査周知に「大大阪」の芸能人が活躍してた!? THEPAGE大阪
大正後期から昭和初期にかけて、都市改造で高揚期を迎えた大阪市。大阪人たちは誇らしげに「大大阪」と呼んだ。大大阪時代の大阪のにぎわいが、国勢調査と大衆芸能にかかわる研究を通じてもうかがい知れる。多くの芸能人たちが行政の要請に応じて国勢調査の啓発活動に活躍していた事実が、改めて浮き彫りになったからだ。研究者が収集してきたSPレコード・コレクションの中に、新たな知見が埋め込まれていた。
浪曲師が名調子で国勢調査物語を語って聞かせる
研究者は、京都市立芸術大学日本伝統音楽研究センター特別研究員の大西秀紀さん。大阪で生まれ育ち、日本レコード文化史の研究に打ち込む。研究調査の一環として、戦前に発売されたSPレコードを多数収集してきた。 5年ごとに実施される国勢調査が今月実施されたが、大西特別研究員は自身のSPレコード・コレクションの中から、初期の国勢調査にかかわる作品をピックアップ。作品の内容を詳しく分析するとともに、当時の新聞記事などを丹念に読み直し、レコード発行の経緯や国勢調査時の状況などを検証。研究成果を所属する同大学日本伝統音楽研究センターのセミナーなどで発表してきた。 国勢調査が初めて実施されたのは1920年(大正9)。以来、5年ごとに簡易調査と大規模調査を交互に実施。第20回の今年は10月、簡易調査が実施された。大西特別研究員の研究対象になったのは、20年と30年の国勢調査時に発売された国勢調査啓発レコードだ。
浪花節宣伝隊が活躍し東京へも遠征
1920年の国勢調査では、国勢調査啓発のSPレコードが2枚確認されている。人気浪曲師初代京山小円の「浪花節 国のしらべ」、同じく2代目吉田奈良丸の「浪花節 国勢調査」だ。どちらも渋い名調子で国勢調査の意義を訴え、調査項目などを説明している。 当時の大阪は、都市の可能性と課題が入り乱れるカオス状態にあった。明治維新直後の混乱から立ち直り、東洋のマンチェスターと呼ばれるほどの近代的商工都市に転身。新たなチャンスを求めて、多くの労働者が地方から移り住んだ。 半面、繁華街のきらめきやざわめきとは裏腹に、社会政策の立ち遅れや急激な人口増加に伴う住宅難などで、光と影が際立つ。船上や路上で暮らす人たちが多いこともあり、行政が市民の生活実態を正確に把握しにくい状況にあった。初めての国勢調査を成功させるには、まちの隅々まで事前の啓発活動の徹底が不可欠だった。 「当時は浪花節という芸能が勢いのあった時代、とりわけ庶民に人気が高かった。そこで大阪府が浪花節親友派に国勢調査啓発の協力を要請。親友派は浪花節宣伝隊を結成して浪曲師たちを国勢調査の説明会に派遣し、参加者を集めて調査啓発にひと役買った」(大西特別研究員) 庶民は浪曲師の名調子聞きたさに、国勢調査説明会の会場へ。待ち構える浪曲師たちは、得意の演題を始める前に、まくらとして国勢調査ものを演じた。さらに新聞が国勢調査まくらを紙面に掲載したため、説明会に行けない庶民にもまくらの内容が伝わった。 浪花節宣伝隊のいわゆる客寄せ効果は高かったようで、宣伝隊は請われて東京へも乗り込んだ。宣伝隊奮戦のシンボルが、人気浪曲師によるSPレコードだった。大西特別研究員調査による小円「浪花節 国のしらべ」の主要部分を紹介しよう。 『国勢調査に文明の 花さまざまの有様を 八つの事柄現して 男女に区分けして 結ぶ縁の夫婦仲 一つ所帯の親や子の 何日の生まれか名はなんと 故郷いずこぞ今住める』 確かにだれにも分かりやすい内容といえそうだ。