青春18きっぷ、もう廃止すべき? 「感情的な反発」を超えて進む鉄道の未来、現代の「自由」との共存は不可能なのか
変化する自由の概念
それでも、自由という価値が失われたわけではない。 人々が求める自由の形は、かつてのように駅から駅へと自分の足で歩き、見知らぬ町に立ち寄るというようなものではなくなった。今求められている自由は、むしろ、より迅速で、効率的で、定められた時間内で達成できる自由だ。 時代が進むにつれて、自由という概念自体が変化しているのだ。自由な旅を楽しみたいと思う気持ちは依然として存在しているが、それをどのように実現するか、その方法が変わったのだ。昔ながらの青春18きっぷの枠組みでは、その自由を十分に提供できなくなったのである。 さらに考えなくてはならないのは、鉄道会社の立場だ。もはや若者たちに過剰なサービスを提供する時代ではない。経済的な観点から見ると、鉄道会社にとって、無償または低価格で提供される切符の維持は負担となり、他の競争力を高めるための資源が失われてしまう。それは、結局のところ鉄道全体の運営にも影響を及ぼすことになる。 旅行という名の自由が、鉄道というインフラにかかるコストや効率を軽視したものとして存在することに、もはや無理があるのだ。
次世代移動手段の模索
しかし、青春18きっぷを廃止することで、若者たちがその自由を失うわけではない。むしろ、別の形でその自由を実現する手段を模索することが今後の課題だろう。 現代の移動手段は、鉄道に限らず、バスや高速道路、さらには自転車など、さまざまな選択肢が存在する。鉄道だけが唯一の選択肢ではない。新たな移動の形を提供することで、むしろ若者たちはより柔軟で多様な自由を手に入れることができるのではないだろうか。 そして、社会全体の視点から見ると、青春18きっぷを廃止することは、次のステップへ進むための布石となるかもしれない。無駄を省き、効率を高め、持続可能な社会を作るためには、古き良きものにしがみつくのではなく、新しいものに目を向けなければならない。切符が持つ 「青春」 の象徴性が過去の遺物となり、今は次世代の移動手段が求められる時代なのだ。もちろん、廃止された青春18きっぷに対して 「感情的な反発」 はあるだろう。多くの人々が思い出とともにその切符に心を寄せてきたのだ。それは、ある意味で日本の鉄道文化を支えてきた象徴であり、その存在感は無視できない。 しかし、物事には始まりがあり、終わりがある。どんなに愛され続けても、時にはその役割を終え、新たな形に生まれ変わる時が来る。それが今なのではないだろうか。