日本人初、メジャーリーグに出場したマッシー村上…「契約書サイン」で浴びた米国の洗礼
メジャーに移って給料が上がると思ったら
マッシーの愛称で親しまれた村上雅則が、日本人選手として初めてメジャーリーグの試合に出場してから、今年でちょうど60年になる。1964年9月1日(現地時間)、リリーフとして対ニューヨーク・メッツ戦のマウンドに上がった。 【写真】「張さん、もうやめましょう」…新人を驚愕させた球界の番長・張本勲の立回り 村上は64年と65年の2シーズン、サンフランシスコ・ジャイアンツでリリーバーとして活躍し、54試合で5勝1敗9セーブ、防御率3.43という記録を残した。 サウスポーの村上は法政二高(神奈川)在学中の1962年9月に南海ホークスと契約を結び、実質2年目の64年2月、球団命令で高橋博士、田中達彦ととともに渡米した。村上が向かった先はカリフォルニア州のフレズノ。そこにはジャイアンツの1Aが置かれていた。 ジャイアンツとは、いったい、どういう契約だったのか。村上によると、ジャイアンツとホークスの契約をまとめたのはキャピー原田というジャイアンツサイドの日系人で、球団の指示に従い、契約書に「マサノリ・ムラカミとローマ字で書いた」という。 キャピー原田は米国陸軍の軍人で、戦後はGHQ経済科学局局長であるウィリアム・マーカット少将に仕えた。原田が尽力した仕事としては、1949年のサンフランシスコ・シールズの招聘があげられる。自ら企画し、サンフランシスコで交渉にもあたった。またプロレスラーの力道山とも親しく、後にリキ・エンタープライズの副社長も務めている。 契約書にサインを走らせる時、村上はある球団職員に「オマエらいいな、給料が上がって……」と羨ましがられた。 「月給は400ドルと言われた。1ドルが360円の時代ですから、僕だって少しはやったと思いましたよ」 一呼吸置いて村上は続けた。 「ところが、これにはからくりがあったんです。アメリカは月給といったってシーズン中しか出ない。だからシーズン前の3月は全くの無給なんです。しかも南海の場合、給料10万円といっても、税金は球団が払ってくれるから、まるまる手取りになる。そうしたことまで含めて考えると実質的には減俸だったんです」