巨人人気に頼るセ・リーグの収益構造が歪めたドラフト制度、その象徴が巨人にNPBが屈した「江川事件」だった
■ 空白の一日、そしてドラフト会議ボイコット 江川卓は作新学院時代に、ノーヒットノーラン9回、完全試合2回など圧倒的な成績を上げ、注目される。甲子園では優勝できなかったが、1973年のドラフトでは目玉の一人となり、阪急が指名(この時期のドラフトは、事前に抽選で指名順位を決めていて、複数の球団が1人の選手を指名することはできなかった)。 しかし江川は慶應義塾大学進学を希望していてこれを拒否。受験するも不合格となる。慶應義塾大学の池井優名誉教授は、このとき他の野球好きの教員と共に大学側に「野球部強化のために江川を合格させるべし」と訴えたが、受け付けられなかったと言う。 江川は法政大学に入学し、東京六大学史上2位の47勝を挙げ、1977年ドラフトの最大の目玉となる。クラウンライターライオンズが抽選で指名順位1位となり(巨人は2位)、江川を指名。しかしすでに「巨人入団を熱望」と表明していた江川は「九州は遠い」という言葉を残してまたも入団を拒否。アメリカに単独留学した。 江川は、翌1978年のドラフト会議の直前に帰国したが、巨人はドラフト会議前日に「江川卓とドラフト外で契約した」と発表した。 当時のドラフト制度では、前年にドラフトで球団が得た指名選手への単独交渉権は、翌年のドラフトの前々日に失効するということになっていた。巨人、江川は前年のドラフトによる交渉権が失効し、次のドラフトで指名されるまでの「空白の一日」の間隙を突いたのだ。 新聞を丹念に追いかけると「江川事件」は、読売サイドによって綿密に仕組まれた事件だったことが分かる。 まず、77年に江川の指名権を保有したクラウンは翌年に西武に身売りした。巨人サイドはこれを承認する代わりに、江川との交渉権がドラフトの前々日に失効したことを西武に認めさせた。11月21日付のべた記事が各紙に載っている。 また、プロ野球機構はこの年8月、ドラフトが新人(高校、大学の在学生)に限ると言う条項(第一三三条)を見直し、卒業生もドラフトの対象になると改定した。この発効日が11月22日だった。11月21日の時点で、江川は西武の交渉権が切れている上に、ドラフト対象である「新人」でもない。この日は二重の意味で「空白の一日」だったのだ。