芸歴36年・磯部公彦「まるむし商店」命名のきっかけは横浜銀蝿だった?
二丁目ブームに乗り、東京の番組の司会任される
最初に所属した事務所は2年後に経営破綻となり、まるむし商店はオーディションを経て、吉本興業に所属した。 ちょうどそのころ、吉本興業ではダウンタウンを核として新たに「心斎橋筋二丁目劇場」を作ることとなり「若手がいない」という理由から、まるむし商店も加わり、当時その劇場から生放送されていた帯番組「4時ですよ~だ!」にも出演するなど、やがて来た「二丁目ブーム」の波に乗った。 その2年後にはダウンタウンが番組を卒業し東京へ進出。まるむし商店にも、その後を追うように東京のテレビ朝日から番組出演のオファーがきた。「パオパオチャンネル」と題した帯のバラエティ番組の月曜日の司会を担当。ほかの曜日の司会には、所ジョージや高田純次、ウッチャンナンチャンの名前もあった。 「東京に住んでる友達から『山手線の吊り広告におまえの顔が出てるで』と連絡があって驚きました。そんな大きな番組に抜擢されるなんてね」と当時を振り返る磯部。しかし、1年担当した後に降板した。 「うーん、努力してんと調子に乗ってたんでしょうね。結果はアカンくて。あそこでもう一花ポーンと行きたかったんですけど」
東京の仕事を1年で降板。しかし舞い込んできた複数のレポーター仕事
しかし、その後はピンの仕事も多く舞い込んだ。青組と赤組に分かれた後輩芸人が体を張って競う長年続く舞台「爆笑!いそべのゲームワールド」は二丁目劇場時代から開催され、ほかにもレポーターやラジオの仕事もこなすようになっていった。 例をあげると、関西で長年放送されている「大阪ほんわかテレビ」や「ちちんぷいぷい」にも番組初期から長きにわたりレポーターなどで出演。磯部が持前の好奇心から、インタビュー対象者に興味を持つと異常に興奮状態になり、一緒に楽しむスタイルが好評を呼んだという。 「いろいろやらせてもらいましたが、バンジージャンプなんて始まったころにやったんで、吉本でいちばん最初に飛んだんちゃうかな。レポーターは経験積ませてもらったんで、一冊の本になるかしれませんね」と磯部は笑顔で話す。