【証言・北方領土】国後島・元島民 池田英造さん(3)
山登り、スキー、魚捕り。楽しかった島の小学校生活
――叔父は何歳で亡くなりましたか。 96歳で亡くなりましたからね。 ――引き揚げられてからは、家族ほぼみんな根室に住みましたか。 そう。うちの親の兄弟たち仲良かったからね、だから、離れないで、仕事していたみたい。 ――親の兄弟や家族で根室に来てから、思い出話することはありましたか。 しょっちゅうあったよ。まあまあ、いいことよりも苦労話が多かったね。いいことってのはあんまり言わないんだよね、やっぱり苦労話の経験多いからね。漁師でものとってもさ、売れたり、売れなかったりっていうような環境の中でしょ。それと、今でありゃあ、労働基準法で定められた時間あるけども、夜寝る時間ない、1時間半か2時間よか、寝れない仕事をしていた、そういうつらい話はよくしていましたよね。だけど、それだけ働いたおかげあって、生活にはゆとりあったみたいだったけどね。 ――島の学校はどういう感じですか。 今でいえば町会、当時は部落、学校中心にして両方に30戸ぐらいずつの戸数があって、生徒が何ぼいたのかなあ、恐らく40ぐらいの生徒だったと思うよね。それで、先生が3人くらいいましたね。だから、学校でも、どこも同じだと思うけども、遊ぶっていえば体動かして遊ぶことばっかり、かくれんぼだとか、鬼ごっこだとか、海さ、入って泳いだとか、魚釣りとか、山登りとか、そんなようなもので。 山登りったって、そんな高い山にはね、熊いるから行けなかったけどもね、裏から山だったからね。そういう山登り、冬はスキー滑ったりというような。だから、子供ながらに、当時は結構楽しみはあったよね。だから、大人でなきゃ捕れないような魚も、自分ら仲間で小船で行って、こう小さい網で捕ってみたりさ。「おおー、大漁だ」なんてね、近所の仲間と騒いだり。だから、結構楽しみはあったよね。 留夜別村、……古釜布沼、この小さい、この出っ張り、この辺にいたのね。国後って村が二つあったのさ。ちょうどね、二つの境界線のところ、こっち留夜別、こっち泊村ってね。この境界線の辺。自然の港、利用したり。だけど、この辺は自然の港って大したないのさ。大体、体のいい港らしいのが古釜布沼っていうところぐらいなもんで、あとは港らしい港はなかったよね。 ――国民学校の校歌は覚えてますか。 当時、校歌なんてなかったんでねえべか。校歌つくるだけの優秀な人材なかったんでねえか。音楽の時間に、ろくに教える先生いなかったみてえだな。だから、音楽なんて全くだめ。あのころ、音楽の先生いれば、俺カラオケ行っても優秀だったんだけど。 ――では、授業よりも、周りの子供たちと一緒に遊んだという思い出がある。 そうだね。だからね、今のさ、入試なんか聞いているとね、今の子供たちかわいそうだなと思うよね。子供と子供のつながりがないわけでしょ。俺、地元のね、PTAの役やったとき、市内の会議あるときにね、話したことあんだけどね、子供を悪く言うわけでしょ、みんなね。だから、俺の言うのは、「その子供らは、誰の子供だ。おまえらの子供だよ」。ね。親に責任はあるよ。隣の子供にいじめられると、「あの子供と遊んだらだめ」。これが問題だ。 俺らの場合、兄弟も多かったけど、兄弟げんかもした。近所の子供たちけんかもした。だけども、けんかすることによって、たたかれれば痛いわけ。自分が痛いっていうのは、相手をたたいたら痛いっていうことわかるわけでしょ。だから、たたいてはだめだ、って気にもなるわけでしょ。それが全くない。親が囲い込んじゃうから、人の痛さ知らない。それが問題だと。 だから、子供らけんかしても、親が中へ入ってはだめだ。けんかやらしておけ、って。親は仲良く付き合え、って。そのほうが子供のためだっていうけど、そうはいかないね。 ――それだけ、本当に仲良かったのですね。今でも、当時の近所の人とやりとりありますか。 1年に1回、この地域だけの学校中心にした二つの町会の者らが、「ウエオキ会」って。植古丹(うえんこたん)とオキツウスっていう町会だったのさ。真ん中に学校あったでしょ。それで、頭文字とって、「ウエオキ」っていう国民学校だった。だから、その名称使って「ウエオキ」っていう親睦会があんのさ。それが毎年1月に温泉に集まって。そうすると、結構年代離れてでもね、皆当時に返っちゃった思いで語れるんだよね。それが楽しみで集まってんですけどね。