【証言・北方領土】国後島・元島民 池田英造さん(3)
「マンネリ化している」と言われた返還運動
そして、語り部に歩くようになった。語り部に歩いても、公的な場では出ない話なんですけども、懇親会なあるでしょ。そういうときに言われたのは、「もう返還運動はマンネリ化してる。こんな運動しても領土返ってこないよ」って言われた。自分も気づいてた。っていうのは、「どこ県と同じ面積」、「元島民1万9,000人住んでいた」、おんなじことばっかりやってるわけでしょ。そして、今度は「北方領土から来たら、食糧難で、芋、カボチャばっかり食べた。大変だ」と。元島民でないったってね、もともと地元にいる人だって、芋、カボチャだよ、当時、食糧難で。したら、何のインパクトもないわけでしょ。 だからね、何かインパクトのある語り部をやらなきゃ、って言われたときに、悲しい思いしたよね。そうだよな、俺もそう思うんだ。俺にはやりたいものが一つあるんだよなっていう思いがあったのさ。人の言えないこと。だけどね、これはなかなか言えないなと思って、胸に秘めてたのね。 して、あるときに、うちの叔父さんがすぐ隣に住んで、毎日のように来ていましたから、語り部に行ったときのその悲しみをしたのさ。実は、もうマンネリ化してる。何かインパクトのある話しなきゃって、いうんで、俺も常に考えていたことなんで、「叔父さんのあの鉄砲の話したいんだよな。そうでないと、皆はね、北方領土から観光旅行的に来て、帰れないっていうイメージよか持ってないよ。だから、こんな厳しさの中で来たんだよというね、語り部をしたいんだ」って話したらね、「俺も90過んだから、まさかよって、刑務所さ連れて行かれねえべ。おまえ、鉄砲の話してもいいわ」って言われたの。 いやあ、飛び上がって喜んだね。「したら、俺、これから、語り部に行ったら、いの一番先にやらしてもらう」って、叔父さんに話して、その話を出て行って、するようになったのね。今までそういう話聞いたことない。そんな厳しかったの。みんなびっくりしました。だから、俺、中学4年生卒でいがったなと。東大なんか出てたら、こんな話できなかったなと思ってね。