【証言・北方領土】国後島・元島民 池田英造さん(3)
返還運動初めて学んだ高田屋嘉兵衛との歴史
――返還運動を本格的に始めたのはいつですか。 大分遅いなあ。50代だろうね、50半ばぐらいかな。 ――仕事は何をしていましたか。 漁業。根室で。そして、先輩らが、もう返還運動のプロになってるわけでしょ、同年輩の仲間でも。始めたばかりで何もわかんないわけ。これには苦労しましたよ。会議に参加したって、言うすべ知らないんだもん。それからね、ちょっと俺も人間が変わってるもんですから、ようし、この人らに負けてたまるかって。俺も、っていう思いで、いろいろな冊子、あっち、こっちから集めて、猛勉強した。それで、この返還運動やるには大事なこと、日露講和条約のもとを見つけたのさ。高田屋嘉兵衛時代からのね、もとを見つけた。これをやらなきゃっていうことでやりだしたのさ。 そしたら、これも、すばらしいなと思ったのね、高田屋嘉兵衛の働きっていうの。だから、ほんとの返還運動はこれだ。今みたいに、「固有の領土」、「戦争で取った領土」だけじゃ話になんない。この人間的なもので語らなきゃっていう思いでやったね。恐らく、おたくさんたちも、そういうことは勉強して、釈迦に説法だと思うけどね、あれはゴローニンがディアナ号っていう軍艦で、国後の泊へ来たんだよね、探検に。して、恐らく人いないだろうと思って上がったのか、人いたけども大丈夫と思って上がったのか、上がったときに、松前藩に捕らえられていった。 そのときに、高田屋嘉兵衛が、国後、択捉から、もの持っていったとか、当時、毛皮が相当、お金になったみたいで、毛皮集めてくるってやってたみたいでね、ロシアと問題起こせば、俺らの商売もできないって思いもあったんだろうけども、何とか話をつけなきゃって。それで、副艦長にリコールドが乗ってたみたい。そして幕府に訴えて、「リコールドに、責任持って船返してけれ」、っていうことで返した。 そうして翌年に、高田屋嘉兵衛が択捉行ったときに、逆に今度はロシアに捕まった。そして、カムチャッカに連れて行かれた。そのときに、高田屋嘉兵衛がこれじゃあ、ということで、リコールドを、どういう手続で呼んだのかね、連絡取ったみたい。そして、リコールドに、「俺はゴローニンをね、日本から返すように働きかける。だから、あんたはロシアと日本のね、国境線をつくることを一つ動いてくれ」っていう約束して、そして、その翌年、ゴローニンが帰されたわけね。それがもとで日露通好条約が始まったっていう冊子見つけたの。 それから、びっしりやるようんなって、よし、このもとさえ知ってればみんなに負けないなっていうことでね。仲間もそれは理解しなかったね。やっぱり「我が固有の領土」一辺倒だったもんね。だから、ちょっと甘いなっていう考えあったんだけど。