メジャーで「クレイジー!」と言われた昔気質のトレーニング方法、「大魔神」佐々木主浩さん プロ野球のレジェンド「名球会」連続インタビュー(21)
マリナーズで一緒だったイチローは努力の天才です。彼は一つ一つの生活が全て野球につながります。練習にしてもトレーニングにしても考えていました。努力家の天才には誰もかなわない。もともと日本の時から話していました。お茶目ですが、野球に対しての考え方は本当にすごい。彼は球団に言い聞かせて、自分のウエートトレーニング器具を持ち込みました。あんなの普通はしません。「おまえの家はでかいんだから、家でやれ」ってね。あれも彼のルーティンなんでしょうね。球場に来てストレッチして、あの器具をやってバッティング練習。ルーティンをそのまま持ち込みました。 僕は考え方が古いので、トレーニングの仕方は昔の人と同じかもしれません。投げる筋肉は投げればつく。器具じゃつかないというタイプ。キャンプでは1日に100~150球投げました。それを3日間とか続けます。それはやらせてくれって僕は言いました。アメリカに行った時、みんなにクレイジーだって言われました。リリーフで1イニングしか投げないのに、投げても2イニングしか投げないのに、何でそんなに投げるんだと。でも、それは続けました。外国人と日本人は体が違うので、つくり方も違うし、投げ方も全然違う。彼らと同じ練習をやってできるかといえば、できないというのが僕の考えでした。 ▽引き際を自ら決められるのは幸せなこと
手術する前は80キロあった握力が手術するたびに落ちていき、最後は65キロになりました。右肘を痛めたのはフォークのせいです。間違いありません。手術すると仮病と言われたのは僕ぐらい。右肘は4回手術しました。仮病じゃ(患部を)切りません。新聞記者は何を考えているのかなと思いました。僕は手術にもけがにも強い。切って3カ月で復帰しました。普通じゃあり得ないから仮病と言われたんです。腰は計3回、膝は1回。手術には強い。大好きなんです。 引退前はもうボールが行かず、自分の投球ができませんでした。幸せなことなんですけど、球団から辞めろと言えない立場だと思いましたから、自分で辞めなきゃいけません。僕が打たれることによってチームに迷惑をかけるので、自分で身を引かないといけないと思いました。 おふくろは体に障害があり、関東に来られませんでした。(2005年8月の最終登板は)たまたま宮城で巨人戦がありました。横浜の牛島和彦監督にわがままを言ってやってもらったんですけど、親の前で投げたいじゃないですか。高校時代の同級生でライバルだった清原和博君と対戦できたし、それですぱっと辞められました。
× × × 佐々木 主浩氏(ささき・かづひろ)宮城・東北高―東北福祉大からドラフト1位で1990年に大洋(後の横浜、現DeNA)入団。フォークボールを武器に最優秀救援投手5度。98年は45セーブで横浜の日本一に貢献。米大リーグのマリナーズでは4年間で129セーブ。名球会入り条件の日米通算250セーブは2000年7月に到達。04年に横浜へ戻り、05年引退。日米通算381セーブ。68年2月22日生まれの55歳。宮城県出身。