【駅ペン】亡くなった横溝三郎監督の情熱 「ミスター箱根駅伝」の思い継ぎ喪章つけて東京国際大力走
◇第101回東京箱根間往復大学駅伝競走往路(2日、東京・千代田区大手町読売新聞社前スタート~神奈川・箱根町芦ノ湖ゴール=5区間107・5キロ) 【詳細データ】往路成績 昨年11月15日の昼過ぎだった。横溝(三郎)監督が亡くなった、という情報が飛び込んできた。その約1か月前、箱根駅伝予選会で2年ぶりに復活出場を決めた東京国際大の控室テントで横溝監督と会ったばかりだった。 「その情報が間違いであってほしい」と願いながら横溝監督の携帯電話にかけたが、出ず。その後、しばらくして「横溝三郎」から、折り返し電話があった。「横溝監督ならいいけど」と思いながら出たら、息子さんだった。訃報(ふほう)の情報は残念ながら本当だった。息子さんは、前日に肝臓がんのために亡くなったことや最後まで箱根駅伝と東京国際大を気にかけていたことなどを丁寧に教えてくれた。 私にとって畏敬の存在だった。横溝監督は1958年に中大入学。1年時から4年連続で箱根駅伝優勝メンバーに。64年の東京五輪では3000メートル障害に出場。創設時につくられた「箱根から世界へ」を体現した。 私が昭和最後と平成最初に東洋大の無名選手として箱根駅伝に出場した時、横溝監督は日本テレビでセンターと1号車の解説者を務めていた。1号車から最も遠い最後尾を走っていた私が横溝監督に解説してもらうことはなかったけど…。卒業後、記者となり、横溝監督を取材する機会は多かった。出身校も、年代も、実績も全く違うのに気にかけてもらった。 東京国際大と予選会で争うことが多い駿河台大の徳本一善監督(45)は「横溝さんの箱根駅伝にかける情熱はすごかった。現役監督のまま亡くなってしまったのだから。最後まで『箱根駅伝男』で亡くなったことは本望だったのではないでしょうか」と40歳年上の大先輩監督を思いやるように話した。 東京国際大の選手はユニホームに喪章をつけて力走した。「ミスター箱根駅伝」と呼ばれた横溝監督は強く、優しい人だった。東京国際大の選手をはじめ全チームの選手を箱根の空の上から見守っていると思う。(箱根駅伝担当・竹内 達朗)
報知新聞社