武運なかった「島津氏の最大のライバル」 日向・伊東氏の栄華と没落
あと少し武運に恵まれていたら九州の戦国史を変えていたかもしれない-。こう思わせる武将の一人が日向の伊東義祐(よしすけ)だ。16世紀、薩摩の島津氏と南九州の覇権を争ったものの、その認知度はいまひとつ。宮崎県でゆかりの地を巡り、伊東氏の栄華と没落を顧みた。 【動画】宮崎・西都市に残る城跡の巨大な空堀 高さは10メートルほどあるだろうか。本丸と二の丸を隔てる巨大な空堀に圧倒された。西都市の都於郡(とのこおり)城跡(国史跡)は伊東氏の本拠。堀の底に立ち、両側から狙われる光景を想像すると恐ろしい。 シラス台地の浸食されやすい土壌を生かし、何本もの空堀が城内を巡る。連載12回目(2023年8月26日掲載)で紹介した鹿児島城の城山と同じ南九州特有の城郭。城山は木々に覆われていたが、都於郡城は一目で構造が分かる。 西都市内には日向国府跡があり、一帯は古代からの中心地。伊東氏は周辺の反島津勢力と結び、三州(薩摩、大隅、日向)の統一を目指す島津氏の前に立ちはだかった。「島津氏の最大のライバル」と南九州大の新名一仁非常勤講師(日本中世史)は話す。 義祐は南への領土拡大を図り、1541年、島津氏が支配する飫肥(おび)(現在の日南市)を攻め始める。跡を継いだ次男義益(よします)が1568年に攻略し、三男祐兵(すけたけ)が飫肥城に入った。領土は最大となり、全盛期を迎えた伊東氏。その栄華を都於郡の巨大な城跡が伝える。 □ □ 都於郡城跡から西へ約60キロ。えびの市の木崎原古戦場跡を訪ねた。かつて「真幸院(まさきいん)」と呼ばれた地域。春先は菜の花が咲き、激戦地の面影はない。 1572年、伊東軍約3千人が攻め込んだ。この地を治める飯野城主・島津義弘はわずかな手勢で迎え撃ち、木崎原で勝利した。戦死者は両軍合わせて800人以上とされる。古戦場跡に残る六地蔵塔は、島津氏が双方の戦死者を弔うために建てたと伝わる。 有力家臣を失った伊東氏は衰退し、勢いに乗った島津氏は三州統一に近づく。明暗を分けた戦いは「南九州の桶狭間」とも称されるが、それ以前から衰退の兆候はあったようだ。 木崎原の戦いの3年前に義益が急死した。「これを機に伊東氏はえびの方面から撤退した」と宮崎県総合博物館の宮地輝和学芸員(日本中世史)。反島津同盟はほころんでいく。 再結束を狙ってか、義祐は大軍を真幸院に送り込んだが、数的優位を生かせなかった。「同盟崩壊を食い止める唯一の機会を失った」。新名さんは木崎原の敗戦をこう総括する。 道の駅えびのに義弘像が立つ。真幸院を死守した義弘の功績は大きい。 □ □ 日南市・飫肥の街並みは風情がある。大手門が立派な飫肥城跡、石壁が連なる武家屋敷。「小京都」という表現にふさわしい。飫肥城の旧本丸は飫肥杉が林立し、時間の経過を忘れる癒やしの空間だ。 飫肥攻略に伊東氏は約30年を費やした。宮地学芸員によると、油津、外之浦(とのうら)という良港の確保が狙いとみられる。義祐の祖父祐国(すけくに)が飫肥で戦死したことも少なからず影響したようだ。 木崎原の戦い後、島津氏の攻勢は増す。義祐と祐兵は大友宗麟を頼って豊後へ逃れるが、大友氏も島津氏に大敗を喫した。1585年、義祐は大坂で生涯を終えた。 祐兵は豊臣秀吉に仕えて再起を果たす。九州平定の軍功が認められ、1587年に旧領・飫肥を与えられた。翌年、飫肥城に帰還した祐兵が感慨深げに城門をくぐる姿が浮かぶ。 その後、祐兵は初代飫肥藩主となり、伊東氏が引き続き飫肥を治めていく。5万1千石の小藩ながら、藩境を巡って薩摩藩と対立したことも。伊東、島津両氏の対立は因縁めいている。 義益が急死しなければ。木崎原で勝っていれば。大友氏が島津氏に負けなければ。義祐の生涯を振り返ると、「“タラレバ”はいくらでもある」(宮地学芸員)。そんな残念な思いも旧本丸の飫肥杉が忘れさせてくれた。 (文・野村大輔) ■メモ えびの市歴史民俗資料館(宮崎県えびの市大明司)。入館無料。月曜休館。電話0984(35)3144。 飫肥城歴史資料館(同県日南市飫肥)。入館料は大人300円など。無休。問い合わせは小村寿太郎記念館=0987(25)1905。
西日本新聞