地元バンク再開直前に強制引退 熊本の55歳元競輪選手が語った“矜持”と妻からの言葉「走りたかった気持ちあるけど」
ラストランを終え、妻からの言葉に…
ケガからの復帰後は、勝ち上がりは激減してしまう。そして6月に迎えたラストランは別府モーニングだった。2日目は3着に入り、車券に貢献した礒田さん。 「競輪選手は毎日の積み重ねが大切で、やるべきことをやっていれば取り返せると思うんです。競輪は脚があれば必ず勝てるというわけではありません。レースの中で良い展開になった時、いかに掴み取ることができるかが大切で、そのためにも日々努力を惜しまずやる。そんな35年でした」 最後のレースを終えての率直な心境はどうだったのか。 「無事に完走できてほっとしたのが一番です。競輪界には感謝しかないので。ここまで走らせていただいて悔いもなく、本当にありがとうございました、と」 ご家族から労いの言葉はあったのか? 聞くと礒田さんは頭をかいた。
「妻からは『これで安心できる』と言われました。昨年の大ケガのときは埼玉の病院に1か月ほど入院していて、熊本から3回も来てくれた。そのたびに妻が泣くんです」 入院してすぐ、手術の日、そして退院の日。肺気胸で飛行機には乗れないため、電車で長時間かけ二人で熊本に帰った。遠路を苦にせず3度も埼玉まで足を運んだ伴侶に感謝の思いを語る。 「やっぱりその時が本当に大変だったので。妻の『やっと安心できる』という一言にはもう…『今までご迷惑をおかけしました』と伝えるばかりでしたね。ケガをしたときは義理のお父さんお母さんにも送迎などでお世話になって。ラストランには来ていただいて、終わって挨拶させてもらいました。私の親は高齢で呼べなかったものですから」
再開直前に引退 走れなかった地元バンク
“悔いはない”とはっきり話した礒田さんだが、引退してから1か月足らずで地元・熊本競輪場が再開を迎えた。一時は6月の再開を目指すという報せもあったが、実際は7月20日だった。あと1期、現役が続けられたらきっと礒田さんももう一度地元を走れたのではないか。 「まさか復活前にやめるとは(苦笑)。走りたかった気持ちもあるけど、自分の今の力がわかってるので。“地元3割増し”と期待される状況で、今の状態で走るのは怖かったかもしれないね。地元を走るのに車券に貢献できない自分というのはつらいから。それが選手としてのプライドなんです」 そう話す礒田さんはすがすがしい表情だった。 「走るからには車券に貢献したいのが当たりまえです。(復活した熊本で車券に貢献する)その気持ちを味わえなかったのは残念だけど、ファンの期待に応えられない自分を応援してもらうのは苦しい」 そこにあったのは、35年間にわたり現役を貫いた競輪選手の矜持であった。