最初は抵抗あったけど、もう全部やっちゃおう、って――サブスク全解禁、矢沢永吉50年目の先へ
そのうち消えるって言われたけど、消えないんだよ
1975年、キャロルの解散コンサートが終わるとアメリカに飛んだ。日本で誰もしていない海外レコーディングに挑戦した。自前で製作費を用意し、映画『ゴッドファーザー』の音楽を手掛けたトム・マックをプロデューサーに迎えた。それでも、ソロデビューアルバム『I LOVE YOU,OK』はファンに不評だった。キャロルの『ファンキー・モンキー・ベイビー』のような曲調が求められた。 「叩かれましたよ。『おまえのロックはもう死んだ』とか『女みたいな歌を歌うな』とか言われたもん。だけど、ファンとかマスコミってそんなもんじゃない? それで(2枚目以降のアルバム)『A Day』、『ドアを開けろ』で徐々に来て『ゴールドラッシュ』で爆発していった。そしたら、批判していたヤツが『俺は矢沢が来ると思ってた』とかさ。ラジオの生放送で『だから当てにならねえんだよ、こいつら』って俺は言ったよ。(笑)」 矢沢の言動は異端そのものだった。ファンやマスコミに媚びず、事務所やレコード会社に対して「俺の取り分はどうなってるんだ」と声高に叫んだ。当時、レコード売上がミュージシャンの懐にほとんど入らないことに異を唱え、自らの著作権を主張。音楽出版社を立ち上げ、原盤権を獲得した。日本にそんなアーティストはいなかった。 「あの頃ね、金の話をしたら『守銭奴』とか『ロックシンガーの風上にも置けない』とか言われましたよ。でも、そういうヤツらが、だいたい裏で金操作してるんじゃねえの? 矢沢消えてほしい、潰したいと思ったヤツは(業界に)たくさんいたでしょうよ。そのうち消えるって言われたけど、消えないんだよ。消えない、消えない……やがて矢沢の時代が来るわけだよ」 「(歌手は)所詮、水商売じゃん。イロモノですよ。その段階じゃ、ギャランティーも何もありゃしない。(実力が)抜けていかなきゃ。駄目なんだよ!」
ソロ4年目の1978年にはアルバム『ゴールドラッシュ』、シングル『時間よ止まれ』、自伝『成りあがり』などのヒットで『高額納税者公示制度』(長者番付)の歌手部門1位に輝いた。申告所得額は1億7123万円。同部門で1980年、1982年にもトップに立ち、最後の公示である2004年も3位に入った。 「本当に生意気な言い方、矢沢はさせてもらいます。自分で勝ち取ったんですよ。むしり取ったというのかな、この業界から。びっくりしたと思うよ。こんなヤツが出てきたよって」 圧力は掛けられなかったのだろうか。 「どうでもよかったね、圧力は。こっちは失うもんないし。あの頃の矢沢って『来るなら来い!』と思ってたからね。だって、もともと何もないじゃん。まだロックの市民権がない時代にさ、何を失うよ」 「今思えば、テレビに100パーセント依存したポジションでいたら、なかなか言えなかったのかな。僕にはよくわからないですけど」 『時間よ止まれ』が大ヒットした1978年、テレビ局から依頼が殺到した。出演すればさらにレコードは売れ莫大な金銭が手に入る。だが、矢沢は拒否の姿勢を貫き、ライブを大事にした。街から街を渡り歩いて同年101か所でライブした。ある地方を訪れた時には楽屋がなく、近くの駄菓子屋の6畳一間を借りて着替えた。束の間の休息に、音楽や著作権の研究を重ねた。自由奔放に見える振る舞いの裏には、人知れない努力や苦労があった。 「だけど良かったよ、生意気で。20年、30年経って、サッカー選手や野球選手が自分の取り分をちゃんと主張して、数億円もらうようになった。今は普通じゃあないですか。日本で最初に言った歌手は矢沢です。俺の取り分、どうなってる? って。矢沢、間違ってなかったのよ」