加部究のフットボール見聞録「五輪という“束の間のお祭り”に意味はあるのか」
個人の夢より代表優先が当然という考え方
東京五輪代表候補の冨安。所属するボローニャで評価を高め続ければ、クラブが五輪への招集を拒否する可能性もあるだろう。(C) Getty Images
ふたつの夢が相容れない時代があった。海外挑戦と日本代表入りである。プロがない時代の日本代表の最大の目標は、アマチュアの祭典である五輪だった。 JFAは1964年の東京五輪へ向けて、ドイツ人のデットマール・クラマー氏を特別コーチとして招聘していたので、同氏を通じて何人かの選手たちにはブンデスリーガへの誘いがかかったそうだ。だが彼らが優先したのは、日本でマイナー競技だったサッカーの認知度を高めることだった。ドイツでプロになるのは、日本代表からの離脱を意味した。 だがさすがに釜本邦茂氏は、メキシコ五輪で得点王になると欧州進出の決意を固めた。2年後には同じくメキシコでのワールドカップを控えていたので、初出場を置き土産にドイツへ旅立つつもりだったという。ところが地域予選を前にウイルス性肝炎で入院。ワールドカップ初出場と日本人プロ1号の夢が消えた。 1984年ロス五輪か
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