なぜ元日本代表の松井大輔はフットサル転身を決意したのか…“キング”カズにも相談…その答えは?
ベトナムサッカー連盟は来年2月を新たな再開目標に設定していたが、もちろん確約されたものではない。おのずと日本への復帰に絞られつつあったなかで、オファーのなかにはJクラブに加えて、似て異なるフットサルへの転向も含まれていた。 いずれにしても、5月に40歳になったいま、現役でプレーできる時間はそう長くは残されていない。日本を含めて6ヵ国、延べ13ものクラブでプレーしてきたサッカー人生をあらためて振り返ったときに、新天地はおのずと定まった。 貫くのは「人とは違う道を歩みたい」――。 サッカー界に籍を残さず、Fリーグの横浜一本でプレーする意義を、松井は「可能性」という言葉に凝縮させた。 「フットサルを通してまた違った自分を発見できたらいいな、と。フットサルで得た知識をサッカーの方へ持っていけるんじゃないかとか、いろいろな可能性が見えてくる。将来的なものを考えたときに、すごくプラスに感じられたので」 2012年1月に元日本代表FW三浦知良が、横浜FCと同じLEOCがスポンサードするエスポラーダ北海道の一員としてFリーグで一度だけプレーしている。Jリーグのシーズンオフだからこそ実現した“二刀流”であり、シーズン真っ只中での松井のフットサル挑戦ならぬ転向は、日本代表経験者では前例のない挑戦となる。 憧れのカズが所属していたからという理由で、松井は鹿児島実業高から2000年に京都パープルサンガへ加入した。そのカズは2012年11月にタイで開催された、フットサルのワールドカップへ日本代表として臨んでいる。今回の転向にあたって松井はベトナムからカズへ電話を入れ、受話器越しに帰ってきた言葉に背中を強く押された。 「カズさんは『面白いんじゃないか』と言ってくれました。加えて『フットサルはすごく難しいけど、大輔ならできるよ』とも」 自分を必要としてくれたサイゴンのオーナー兼会長、チャン・ホア・ビン氏の理解もあって退団し、帰国する道を選んだ松井には一抹の不安があった。ベトナムがロックダウンされた影響で、6月から練習ができない状況を余儀なくされていたからだ。 「6月から僕は家から一歩も外に出られなくて、食事に関しては軍の人が運んできてくれたものを食べる生活を続けていました。非常階段を使ってちょっと運動するとか、開放されている屋上で空気を吸いながら体幹を鍛えたりはしていたんですけど、外に出られない苦しみというのはサッカー選手としてはなかなか致命的だったかなと」 今シーズンそのものが中止となり、消化していた試合の記録などがすべて抹消された直後の8月下旬に松井はベトナムを離れた。しかし、入国後も2週間の自主隔離期間が設けられ、練習ができない時間がさらに続いた。松井が再び苦笑する。 「本当にコンディションがよくないので、しっかりと作りながらやっていかないと」