「サブカルとJ-POP」1960年代編、深夜放送、アングラ、フーテン、全共闘
60年代のサブカルのキーワードの1つにあるヤクザ映画
網走番外地 / 高倉 健 1965年公開の映画『網走番外地』の主題歌。健さん!! 叫びましたねー。1965年から1967年にかけて10作が作られた映画ですね。60年代のサブカルのキーワードの1つにヤクザ映画がありますね(笑)。あくどい親分の筋の通らないことに対して、堪忍袋の緒が切れた。健さんと鶴田浩二さんが乗り込んでいくわけですね。深夜映画館の銀幕のヒーローでありました。60年代、今日は10年間まとめてお送りしておりますが、60年代前半と後半とサブカルのトーンがちょっと変わってきますね。先週50年代はとても明るい、そういう空気の歌が多かったですが60年代はそれが続いているんですね。青春は明るい、輝くというのがあってこのへんから変わってくるわけです。その中に政治的な要素が加わってくる。ヤクザ映画に拍手を送った学生たちのかなりの割合がそういう反権力的と言いますか。世の中に対する不満をいっぱい持っておりまして、それが大学や高校で形になったのが学生運動だったわけですね。この『網走番外地』も一時放送を自粛、放送で流してはいけませんという曲になっておりました。 1975年にダウン・タウン・ブギウギ・バンドがデビューしたときに、『脱・どん底』というアルバムでこれをカバーしたのですが、発売直前に発売禁止になって、この曲を除いて出し直したというそんなエピソードもありました。1964年。ビートルズが日本にデビューして、ビートルズとヤクザ映画の時代が来ました。 モンキー・ダンス / ザ・スパイダース 1966年5月発売、ビートルズが来日する1カ月前に発売になりました。ザ・スパイダースの「モンキー・ダンス」。デビュー曲が「フリフリ」だったのですが、そのB面がこの「モンキー・ダンス」ですね。ザ・スパイダースのデビューの話になると、大体ほとんどが「フリフリ」が流れます。それはかまやつさんの詞曲だったからですね。「モンキー・ダンス」は作詞が阿久悠さん。阿久さんの処女作なんですね。彼は当時、広告代理店にいました。当時のCMはまだサブカルでしたね。70年代にそれがメジャーになっていくんですけども、当時の広告代理店でコピーを書いたり、CMを作ったりしておりました。1966年に会社を辞めて、放送作家、作詞家に専念してフリーになっていくんですね。1966年にビートルズが来日しました。ここからやっぱり以前、以後になりますね。 GSはザ・スパイダースとブルー・コメッツが最初の扉を開けた。ブルー・コメッツはコロムビア・レコードだったのですが、コロムビア・レコードは老舗ですからね。美空ひばりさんとか、島倉千代子さんとか、ああいう日本の歌謡曲の大御所のレコード会社でバンドを扱ったことがなかったんです。こんなもの日本の曲として出せないよというので、洋楽のレーベルから英語で出したという逸話がありますね。 ブルー・コメッツのデビュー曲「青い瞳」は英語詞だったんですね。つまり、メインカルチャーには入れてもらえないところから始まった。それが日本のバンドムーブメントですね。かまやつさんは先週話に出たウエスタン・カーニバルで三人ひろしとして活躍もしていたので、彼はサブカルとメインを繋いだ大功労者ですね。GSの後期にはこういうオリジナルの日本語のバンドも登場しました。 1968年3月発売。ジャックスのデビュー曲「からっぽの世界」。ヴォーカル・早川義夫さん、ギター・水橋春夫さん、ベース・谷野ひとしさん、ドラム・木田高介さん。水橋春夫さんは後にWinkのディレクターになるのですが、日本語ロックの元祖ですね。来週、はっぴいえんどの話も出るわけですが、松本隆さんはジャックスを見て日本語でやろうと思ったという話をしてくれたことがありました。 GSは、始まりはサブカル的な始まりだったのですが、メジャーになってからは職業作家が売れる音楽を作るというような作り方になっていって、画一化とマンネリ化で1968年をピークにあっという間に失速してしまうわけですが、その中でオリジナルのバンドの音というのを求め始めた人たちがいた。それがジャックスであり、はっぴいえんどであり、フォーククルセダーズだったというふうに言っていいでしょうね。バンドのメンバー、曲の知名度、商業的な成功度はかなり違いますが、やっぱりフォークルとジャックスは語られるべき存在でしょうね。 この「からっぽの世界」はラジオの深夜放送で聴いたのですが、途中から流れなくなりましたね。流してはいけない曲に指定されてしまいました。60年代のサブカルの中で深夜放送の影響力は大きかったですね。若者の音楽が急速にサブカル化していく。禁じられたりするという、そういう立役者の一人がこの人ですね。 くそくらえ節 / 岡林信康 1969年8月に発売になりました岡林信康さんのデビュー・シングル「くそくらえ節」。世の中に対してのくそくらえという話が続いております。これもいきなり発売中止になったんですね。なぜかと言うと、くそくらえという言葉がいけない、思想的に偏向してるということで発売禁止になりました。フォーククルセダーズと岡林信康さんは同じ事務所に所属していたんですね。この「くそくらえ節」の前、1968年2月に「イムジン河」がやっぱり発売中止になって、メジャーでは歌いたい歌が出せないということでURC。今でもいろいろな形で脚光を浴びておりますが、これが発足するんですね。アンダーグラウンド・レコード・クラブですね。60年代サブカルのキーワードの1つ、深夜放送、アングラ、フォーク。このアングラという言葉がそのままレーベル名になりました。サブカルが自立して60年代が終わる。1969年、サブカルチャーのルネッサンスのような年でした。1969年のアングラと言えば、この人です。 かもめ / 浅川マキ 1969年7月発売、浅川マキさんの正式デビュー曲「夜が明けたら」のカップリング「かもめ」。「夜が明けたら」も「かもめ」も作詞が寺山修司さんですね。劇団・天井桟敷。天井桟敷と言うと、カルメン・マキさん。彼女の「時には母のない子のように」が同じ1969年なんですね。今日「時には母のない子のように」にしようか「かもめ」にしようか迷ったのですが、こちらにしました。この歌、殺人が歌になっているんですよ。マキさんはアングラの女王と呼ばれていましたからね。彼女を送り出したプロデューサー・寺本幸司さんが寺山さんを紹介した。そのきっかけになったコンサートが新宿のアンダーグラウンド劇場さそり座。アングラですよ。 実はこの曲にしようと思った理由がもう1つありまして、桑田佳祐さんが「ジャズと歌謡曲とシャンソンのゆうべ」というライブを東京ブルーノート、神戸月世界で行ったのですが、そのときに先ほどおかけした松尾和子さんの「再会」とこの浅川マキさんの「かもめ」をやっていたんですよ。で、その時に番組で流したいなと思ったのが今日に繋がってますね。この桑田さんのライブよかったですね。僕、サザンのファンクラブの会報がありまして、代官山通信。それでブルーノートのライヴ・レポートを書いております。サブカル特集をやろうと思ったきっかけの1つに桑田さんへのオマージュというのもあります。サブカルの夜明けの中で60年代が終わります。