「うちの社員はすごい!」 “仕方なく”家業を継いだ男性に起きた心境の変化 大阪府八尾市の木村石鹸
■後継ぎプレッシャーや呪縛からの逃避 なぜ、自分の人生を勝手に決められないといけないのか。 自分はこんな小さな誰も知らないような会社ではなく、もっとクリエイティブな世界で、もっと大きな世界で活躍するんだ。その根拠のない自信の背景には、ここから一刻も早く脱出したい、違う世界に身を置きたいという気持ちがあったように思います。 年々重みを増す後継ぎプレッシャーや呪縛から離れることができたのは、大学生になって、京都で一人暮らしを始めてから。実家との物理的な距離ができ、ようやく「本当の自分」を取り戻せた気がしました。
とはいえ、壮大な夢や目的は特になく、あっという間に3年が過ぎ、周りが就職活動に勤しむ中で、働かずに生きていけないかと、モラトリアム気分を引きずったまま、現実逃避よろしく、毎日釣りと麻雀と、家庭教師のバイトでのらりくらりと過ごしていました。 そんなある日、すでに大学を卒業していた先輩から「一緒にネットビジネスをやらへん?」と声をかけてもらったことをきっかけに、ベンチャー経営の道を歩むことになりました。
当時の日本はプロバイダーさえも数えるほどしかない状況。当然、インターネットが何かもよくわかっていませんでしたが、なんとなくおもしろそうというだけで、気軽に引き受けてしまったのです。まさか、その世界にあんなに夢中になろうとは……。 実家に帰るのは盆と正月ぐらい。高校ぐらいまではかろうじて多少の手伝いはしていましたが、20代になると石鹸工場にもまったく足を運ばなくなりました。実家で何が起きているのか、どんな商売をしているのか、僕は意識的に情報をシャットアウトしていたのだと思います。
多少でも気にかけようものなら、すぐに「いつ継いでくれんねん」「いつ(家業へ)帰ってきてくれんねん」と言われてしまうから。それが嫌で嫌でたまらなかった。 たまに実家に帰ると、親父は「うちの会社はすごいんやぞ」「うちの社員はすごいぞ」を繰り返します。僕に少しでも興味を持ってもらいたかったのでしょうか。そんな話を聞かされれば聞かされるほど、家業への嫌悪感が募っていきました。 起業したベンチャーの経営はものすごく大変でした。利益の創出はもちろん、優秀な人材を確保することの難しさや、その人たちのマネジメントの課題に常にぶつかっていました。