「日本現代美術私観:高橋龍太郎コレクション」(東京都現代美術館)レポート。ひとりの精神科医の私観からアート史に新たな視点を加える展覧会
ゆれる世界とゆらぐ「わたし」
東日本大震災以降の収集作品が展示される第5章では、震災以降ますます強まった「わたし」という存在の不確定性を問い直すような作品群が展示される。冒頭に展示されるのは、大山エンリコイサムの70年代ニューヨークのストリートペインティングを再解釈し絵画作品や、やんツーの機械学習プログラムを導入したドローイングマシーンによって制作された絵画作品など、作者の主体性や、テクノロジーを起点とした非人間中心的な世界への思索をうながすような作品群だ。 また、本章の中盤で展示される坂本夏子と梅津庸一の作品は、コラボレーションという制作方法によって「わたし」という概念が融解した「絵画のあり方」を追求している。現代のアーティストたちは、おのおのが独自の手法や素材との格闘を通じて、多義的であいまいな「わたし」という概念の拡張を図っているのだ。
ストリートで交わる過去と現在
いまなお拡大を続ける高橋コレクションだが、近年、高橋を惹きつけているのはストリートを舞台に制作を行うアーティストたちの作品群だ。近年の収蔵作品を中心に紹介する第6章では、路上で発見した記号の断片を身体を通して再配置することで、新たな言語を作り出そうと試みる鈴木ヒラクの作品や、街灯やガードレール、道路工事のサインなどを素材としたインスタレーションを制作するSIDE COREの作品などが展示されていた。 本章の最後には、高橋にとって特に思い入れのある近代の画家、里見勝蔵の作品が展示される。フランスにわたり、日本に「フォービズム」を紹介した人物として知られる里見は、晩年、路傍の石に顔を描いた作品を継続的に制作していたという。高橋が収集してきた日本独自の現代アートを探求するアーティストの作品と、近代に「洋画」というジャンルを設立した里見の作品、その両者が「ストリート」という場所で交わり、展覧会は幕を閉じる。
Haruka Ijima