公園─それは親たちの「自己演出」、「評価」、「比較」のステージだ|フランス紙が分析、公園での「あるある」
あらゆる手段で教育の「腕前」を示す親たち
だが、何よりも私を不快にさせるのは、「公園は親たちのピリピリした競争の場でもある」ということだ。おそらく、それは親が各々の教育の腕前や指針を示さなくてはならない、一種の舞台となっているからだろう。 こうしたことから、少々不快な交流が生じてくる。たとえば、自分の子供の一挙手一投足にいちいち大声でコメントをする親。「すっっっっごいわね! 一人で三段目まで登れたじゃなーーーい!」といった具合に。 それから、自分の子供に話すという口実で、親としての教訓を周囲に向かって語り出す人もいる。「みんなの体は尊重しなくてはならないんだよ。もし抱きつかれるのが嫌だと言う友達がいたら、手を離さなくてはいけないんだ。これを『ど・う・い』というんだ。よし、このテーマについて家でポッドキャストを聞こうね」 他人の教育を悪く言うことで良い教育の輪郭を描こうとする人もいる。「あの男の子は裸足で走ってもいいことになっているかもしれないけれど、お前はダメ。家によって決まりは違うんだ。お父さんはそれが危ないし良くないことだと思う!」という感じ。 他人の子供をこき下ろすために敢えて褒めてくる親もいる。「あら、すごい。息子さんは躾が行き届いていますね。うちの子なんてやんちゃが過ぎて、18ヵ月の頃からジャングルジムの高いところに登っているんです」という具合に。ある同僚の話では、スポーツウェアでやって来て、子供が遊んでいる間に夫婦でクロスフィットを教えようとする人たちもいるという。 さて、ここで告白しなくてはならない。こうした各タイプの親の姿を(最後を除いて)私自身、数えきれないほど体現してきた。結局のところ、こうした場所は私たちの一番悪い部分を浮き彫りにするのではないかと思う。これは、2005年に『教育学』誌に発表されたダニエル・ガイエの論文を読んだときの印象とも重なる。教育学の教授であるガイエは、公園での人々の態度を観察した。 彼は「親は子供たちの付き添いという役割には止まらない。皆、自分が他人に何かを提示していると心得ているし、子供たちに向けられた言葉は実際のところ大人たちに聞かれることを目的としている」と述べている。ここで問題となるのは、自己演出、評価、社会的な可視性、そして比較だ。
良い親であるかどうかのテスト
この論文を読んで、私はなぜ公園に行くと冷や汗が出るのかを理解できるようになった。子供たちに楽しいアクティビティの時間を与えると見せかけて、実は良い親であるかどうかのテストを受けることがポイントなのだとすれば、私たちはいやいやながらもがんばるしかないのかもしれない。
Clara Georges