公園─それは親たちの「自己演出」、「評価」、「比較」のステージだ|フランス紙が分析、公園での「あるある」
公園に一歩足を踏み入れたときから、親たちの戦闘は始まる。教育手腕を“それとなく”披露し、“さりげなく”子供たちを比較するのだ。フランス「ル・モンド」紙のコラムニスト、クララ・ジョルジュが、公園での親たちの振る舞いを分析する。 「レストランに子供を連れていくか」問題に、フランス紙記者が出した答え 私は公園の遊び場が嫌いだ。子供を持つ前には、こんな突飛な造りの場所には注目したことすらなかった。せいぜい若い頃に飲み会の後、「あの回る遊具に乗ったら最高に楽しそうだな」と思ったことがあるくらいだ。 さらに記憶をさかのぼると、母が週末に連れて行ってくれたパリの公園を思い出す。近所の犬が好んでやって来る砂場を私が引っ掻き回しているのを見て、母が一種の躊躇を抱いていることを感じていた。それに、母の態度には、当時の私にはわからなかった「何か」があった。母は遊具から少し離れたベンチに座り、他の親たちとの交流を念入りに避けているようだった。 現在、三人の子供を持ち、10年近くの「公園経験」を持つ私には、母の行動がとても良く理解できる。まず、公園を丹念にデザインしている方々には申し訳ないが、美的感覚をもって言ってしまえば、こうした場所は総じて醜い。というのも、フランスでは公園の遊具は厳しい規定に則った標準目録に従う必要があり、結果、遊び場は標準的な仕様になり、遊具もカタログから選んで購入されていることが多いのだ。 もちろん例外もある。余裕のある大きな都市では、派手な色は使わずに木製の遊具を採用するといった形で周囲との調和が保たれている。それでも、私はずっと反感を持っている。「子供たちのために特別に用意された場所」という考え方自体が、私を不快にさせるのだ。まるで、「町のその他の部分は子供のためのものではない」と言っているかのようではないだろうか。これは、哲学者のティエリー・パコが長年進めてきた考え方で、彼は都市全体をレクリエーション的なものにするために活動している。 しかし、実際のところ、私が不快に感じるのは見た目だけではない。それは公園と切っても切れない二つの要素、「退屈」と「他の子供の親たち」に関係する。 とにかく死ぬほど退屈なのだ! この点についてはこれ以上言わない。子供たちの鉄棒での「豚の丸焼き競争」を見るのはうんざりだし、心臓にも悪い(やっていた子供は落下した)。しかもそれは、終わりのない比較の根源にもなる(その子の友達はその子よりもずっと上手だった)。