重要ポストの傾向に「疑問符がつく」 悲劇を繰り返さないために…Jクラブが抱える組織課題【インタビュー】
違和感を抱く日本サッカー界の風潮
1993年のJリーグ開幕時に“オリジナル10”として名を連ね、後に消滅という悲劇の歴史を辿った横浜フリューゲルス。そのクラブ立ち上げに携わった元クラブ職員の1人である大松暢氏に話を訊いた。チーム運営について知り、なおかつ貴重な経験を持つ同氏の目に映る今の日本サッカー界とは。(取材・文=FOOTBALL ZONE編集部・山内亮治/全2回の2回目) 【動画】元フリューゲルスMFエドゥー、1994年磐田戦で決めた伝説の“40m直接FK弾” ◇ ◇ ◇ Jリーグにおける悲劇の歴史として語り継がれている横浜フリューゲルスの消滅。事の発端とされているのは、1998年に入り共同出資していたゼネコンの佐藤工業が経営不振を理由とするクラブ運営からの撤退表明だ。これに伴い全日本空輸が単独でクラブ運営を維持できないと判断し、横浜マリノス(当時)に合併を提案した。協議の末にマリノスの親会社、日産自動車はこれを承認。同年12月2日に両クラブの合併が調印され、フューゲルスの消滅が決まった。 大松暢氏は1992年7月1日、佐藤工業に入社すると同時にフリューゲルスの運営会社「全日空スポーツ」へと出向した。チーム運営のあらゆることが手探り状態のなか、選手の査定方法立案をはじめ、外国籍選手のサポートなどフロント的役割に奔走。Jリーグ開幕の年から2年間はチーム統括マネージャーを務め、その後はクラブが消滅するまでホームタウン営業課長としてファン拡大を図った。 6年余りという短い時間ながらも、Jリーグ草創期にクラブ立ち上げとその運営に携わった大松氏。プロサッカーの現場から離れて25年の月日が経ったが、その目に現在のJリーグはどう映っているのか。まず口を突いて出たのは、クラブ運営会社に在籍していたからこそ抱く世間とのギャップだった。 「日本の会社って、何かあるとすぐトップが責任を追及されます。これはJリーグでも同じです。チーム成績が芳しくなければ社長が責任を取らなければいけない、この国のサッカー界における風潮はおかしいと思っています。経営と強化は本来別なんですよ。一方で、3期連続の赤字でJクラブライセンスが剥奪されるとなったら、これはもちろん社長に責任があります」