日本初の民間銀行の土台となった三井大坂両替店。奉公人は10歳住み込みで働き、勤続30年で店外の自宅をもてるように。年功序列の階級と待遇の実態とは
◆一人前の手代になった後 しかし、子供が一人前の手代になっても、住み込み生活は変わらなかった。表1は、大坂両替店の奉公人の職階を示したものだ。 子供が手代に昇進したあと、まず初元(はつもと)として3年間くらい勤め、手代の末端として業務の習熟に努めた。そして初元の4年目には、平の手代に昇進した。このあとも、職階の階梯を一段ずつ登っていくことになる。 平を約6年、入店して16年ほど勤続すると、役づきの手代に昇進した。このとき26歳前後だ。さらに勤務を続け、勤続23年目、33歳前後には、住み込みの最上位として店を統括する支配に昇進した。そして勤続30年目、40歳前後に至ると、別宅手代に昇進した。 別宅手代になると、店外の自宅から重役として店に通勤するようになり、経営の監督や意思決定を担当した。彼らは、この時点ではじめて妻を迎え、家族を持つことができた。ようやく住み込みから脱したわけだ。 なお、職階については、京都呉服店に比べて大坂両替店のほうが簡素化されていたが、両方とも別宅手代になる勤続年数と年齢はほぼ同じであった。
◆勤続年数に応じた年功序列の世界 このように職階は、概ね勤続年数に応じた年功序列で上昇した。表2に、安政3年(1856)11月時点の大坂両替店の奉公人を示した。 これをみると、元〆(もとじめ)の福田万右衛門(ふくだまんえもん)と勘定名代の石島保右衛門(いしじまやすえもん)が重役として通勤し、経営の中枢を担ったこと、石井与三次郎(いしいよそじろう)・吹田四郎兵衛(すいたしろべえ)が支配として店を統括したことがわかる(原則、店表の奉公人は店内で苗字を名乗っていた)。 しかも役づきは、全員10歳前後から入店し、勤続してきた子飼いの奉公人であった。もちろん、平・初元もその例に漏れない。 一方、佐田半七(さだはんしち)は子飼いではなく、元服後の26歳で中途採用された中年者(ちゅうねんもの)だ。山尾周五郎(やまおしゅうごろう)は、40歳で中途採用され、天保3年(1832)から嘉永4年(1851)まで勤務し一時退店したが、すぐに再勤した。表2をみると、彼らは、営業部門とは異なる「書方」に属したことがわかる。 京都呉服店の場合、中年者は基本的に「書札方」に属し、書類・帳簿の作成と子供への教育を担当したというから、佐田と山尾も、これらを担当できる技能の持ち主として中途採用されたとみてよい。 吹田勘十郎(かんじゅうろう)については不明な点が多いが、臨時的な雇用として、大坂両替店が管理した家屋敷や新田を見回る役目を担ったと思われる。1850年代半ばには地震が各地で発生したから、この雇用は地震被害への対応であったかもしれない。