“都市=蟻地獄”だった…江戸時代からみる 日本の人口減退期に起こること
人口減少時代に入った日本。厚生労働省がまとめる人口動態統計の年間推計でも2016年に生まれた子どもの数が1899(明治32)年の統計開始以来、初めて100万人を割り、98万1000人にとどまる見通しであることが明らかになりました。 過去に日本の人口が減退したときにはどのようなことが起こっていたのか。人口動態の資料が残る江戸時代にスポットを当て、静岡県立大学長の鬼頭宏氏(歴史人口学)が「人口減退期とはどのような?―江戸時代の場合―」をテーマに解説します。
日本列島では、過去に何度か人口が減退する時期があった。縄文時代後半、平安・鎌倉時代、それに江戸時代後半である。人口減少の原因としては、一般に気候変動が指摘される。確かに縄文後半と江戸後半は寒冷期に当たっていた。逆に平安から鎌倉時代にかけての12~13世紀には、温暖化と夏季の乾燥化が進んだ時代であった。しかし事実はそれほど単純でも明確でもない。むしろ人口減退の真の原因は、それまでの持続する人口増加を支えてきた文明システムの成熟化にあったと考えるべきなのだ。いずれも資源や環境の制約から、人口と経済の量的拡大が困難になった時代であった。そして文明のパラダイムシフトが準備される時代でもあった。今回は、詳しい人口動態を知ることができる江戸時代についてみることにしよう(図1)。
江戸時代の少子化
縄文時代や平安・鎌倉時代に関しては未だ解明されていないが、江戸時代後半については「少子化」が起きていたことが明らかにされている(図2)。東日本各地の町・村及び関東・東北7県の出生率をまとめた研究によれば、17世紀半ばには一人の女性は5人以上の子供をもったが、18世紀に入ると急激に縮小して4人を割ってしまう。出生数が再び4人以上に回復するのは19世紀後半になってからだった。
江戸時代農村の出生率は地域によって大きな格差があった。しかし1700年頃から、全国各地で出生率は著しく低下したことは共通している。江戸時代には乳幼児の死亡率が高かったので、少なくとも4人、できれば5人の子供を生まなければ、家の継承や村落の人口規模を維持することはできなかった。人口が増加していた17世紀には、女性は一人あたり5~6人は生んでいたのである。それが18世紀になると多くの地域で4人を下回るようになった。授乳期間を延ばして妊娠を防ぐとか、堕胎や間引きなどの手段を通じて出生抑制が行われたと推測される。 出生率を引き下げたのは出生抑制だけではない。各地で女性の晩婚化が起きたこともわかっている。結婚が遅くなったと言ってもせいぜい3年程度だが、子ども数を1人程度は少なくさせる効果があった。 江戸中期から後期は「小氷期」と呼ばれるほどの世界的な寒冷期で、日本では冷害による凶作がたびたび大きな飢饉を引き起こしていた。とくに東北から北関東にかけて、飢饉の被害は大きかった。しかし江戸時代後半に各地でみられた人口減少や増加率の低下は、死亡率の上昇というよりも、出生率の低下が根本的な原因であったことが、シミュレーションからも明らかにされている。