“都市=蟻地獄”だった…江戸時代からみる 日本の人口減退期に起こること
資源の制約・環境の制約
結婚を遅らせたり、子供数を減らしたりした背景には、資源の制約や環境の制約があったと推測される。必ずしも土地がなくなったわけではない。居住地の近隣に適当な土地がなくなったり、開発に高度な技術が必要になったり、コストがかかるようになったりしたのだろう。それに加えて、営農に必要な森林、草地、水などの環境資源が不足するようになったことが出生抑制の原因になったと考えられる。 農村では一般に、経営規模が大きい世帯ほど早婚、多産の傾向があり、子ども数が多くなる傾向があった。経営規模に合わせて子供数を決めていたと考えられる。17世紀は大開墾の時代で、耕地面積は大きく拡大した。子供数は多くても問題ではなかっただろう。しかし17世紀末期から18世紀初期にかけて「分地制限令」が発せられるようになった。耕地を相続する際に、自作農として経営を維持できる最低水準を守るように命じたことは、耕地の相対的不足を物語るものである。子供数をむやみに増やすことは困難になったのだ。 1666年には「諸国山川掟」が発令されている。川筋の森林伐採や新規の焼畑が禁じられ、はげ山への植林が奨励したもので、山林が荒廃しつつあったことが知られる。城郭や神社仏閣の建築のために調達された材木の産地が、1700年になると北は蝦夷地(渡島半島)から南は種子島、屋久島まで拡大したことも、このころに森林資源が制約されるようになったことを物語っている(タットマン『日本人はどのように森を作ってきたのか』)。 農村は食料と原料作物、山林は木材と燃料、海村は水産物と塩、都市は工業生産物の供給、商業、流通、サービスの提供を行うことにより、生態学的に日本列島の閉じた空間の中で活発な市場取引が行われたのが、江戸時代であった。 土地に依存し、しかも事実上の鎖国により資源を国外からの輸入に依存できないという条件のもとで、人口3千万人の徳川日本は8代将軍吉宗の時代に成長の限界を迎えたのである。