“都市=蟻地獄”だった…江戸時代からみる 日本の人口減退期に起こること
地方の発展・都市勢力の交替
江戸時代は市場経済化が進んだ農耕社会である。当然、経済成長にともなって都市化が進んだ。しかし都市人口も全国人口の停滞に歩調を合わせるように頭打ちになった。斎藤誠治氏の調査によると、都市人口は17世紀半ばから18世紀半ばまでは大きく増加したが、19世紀半ばにかけて減少している。その間、農村人口は17世紀にはおよばないものの、増加を続けた(斎藤誠治「江戸時代の都市人口」)。
江戸時代後半に起きた都市人口の停滞には、主に2つの理由があったと考えられる。 第1は都市環境である。都市=墓場説、あるいは都市=蟻地獄説と呼ばれる現象が存在した。都市の衛生環境が農村より格段に悪く、通常の年でも農村部より死亡率が高かったことである。天然痘、麻疹、結核、インフルエンザ、下痢・腸炎、梅毒などが蔓延しやすく、幕末にはコレラが何度も襲った。過密な居住環境とともに、消毒されていない水道が感染症の温床になっていた。 また現在と同様に、都市では家族を持つことが困難であり、出生率は農村より低かった。しばしば死亡率は出生率よりも高く、20世紀に近づくまで都市部では自律的に人口を維持することが難しかった。そのため都市人口を維持するためには、常に農村部からの人口流入に頼るほかなかった。その結果、大都市の存在は、地域人口を抑制する機能を果たすことになった。 第2に江戸・大坂・京都の三都と多くの城下町で人口停滞が顕著だったが、地方都市ではわずかながら増加していた(図3)。その理由は経済発展の停止ではなく、反対に17世紀とは異なった経済発展の結果としてみることができる。
経済史家のトーマス・スミスの調査によると、三都を含む多くの城下町で、江戸時代後半に人口規模を縮小させたが、人口が激減した都市の多くは、当時の経済先進地域である畿内・瀬戸内海地方に集中していた(スミス「前近代の経済成長―日本と西欧―」)。また三都のうち大坂と京都の人口減少が大きかった。都市の規模別分布の変化を見ると、1750年から1850年にかけて、既存の大都市では人口が停滞したが、1万人未満の地方都市では都市的発展が起きていたことがわかる。このような変化の背景には、17世紀とは異なる地域間の経済循環構造への転換と、経済発展の内容に変化が生じたことが指摘されている。