“都市=蟻地獄”だった…江戸時代からみる 日本の人口減退期に起こること
新たな成長の始動
農村人口と都市人口の変化が物語るのは、江戸時代後半における新たな経済発展への転換である。18世紀前期までの経済成長は、耕地拡大と土地生産性の上昇による農業発展が中心であった。それは土地によって強い制約を受けたので人口は停滞に向かわなければならなかった。市場経済の浸透と拡大によって都市的発展は起きたが、非食料生産人口である都市人口は農業生産によって制約されたので、やがて都市人口も頭打ちになったと考えられる。 18世紀半ばから総人口は停滞的になったが、必ずしも経済成長がなかったわけではない。「プロト工業化」と呼ばれる、農村を舞台にした非農業生産活動が活発化したのである。18世紀に入って、海外に頼らざるを得なかった白糸(絹糸)や砂糖の輸入が制限されると、それを国内で生産することが奨励されるようになった。木綿、アブラナなどの原料生産だけではなく、農民がみずから綿糸、綿布、種油の加工を行うことも盛んになった。酒や味噌、醤油などの醸造、製紙も活発に行われるようになり、各地に特産物が生まれた。 農民自身が加工や流通に副業、兼業として携わるようになると、家計所得を拡大させることができた。地方では問屋、金融業者、流通業者などが集まる、在郷町とよばれる人口数千人程度の町場が形成されるようになった。一方、地方の経済活動が活発化して地方市場間の直接的な取引が盛んになると、経済先進地帯であった大坂や京都は、加工や商品の入荷が減少して中央市場としての機能が低下し都市の衰退につながった。ただし江戸は参勤交代制度によって50万とも60万とも言われる武士人口が幕末まで住み続けたので、大きな衰退は起きなかった。むしろ経済後進地域であった関東農村で、江戸向けの繊維、醸造業が活発化することによって、新たな中央市場として成長していった。
ではどうして江戸時代後期の経済発展はすぐに人口増加に結びつかなかったのだろうか。ひとつの回答は、農村工業の経営の特徴にあった。多くの地域で、養蚕、紡績、織布を中心に、労働力となったのは農家の子女であった。かれらは耕地が少なくても非農業に従事することで生活することができた。家計にとっても貴重な稼ぎ手となったので、むしろ結婚が遅れる傾向が出てきた。それでも出生率はじわじわと上昇していき、18世紀半ばの開港前後には17世紀後半の水準に回復した。幕末から明治初期にかけて、人口は着実な上昇に転じた。新たな人口波動の始まりであった。 2015年、23の構成要素からなる「明治日本の産業革命遺産」が世界遺産に登録された。これら多くはその起源を開港以前まで遡ることができる。欧米の生産技術の模倣によって近代化の試みが他のアジア諸国に先駆けて実現した背景には、広く農村で展開していた工業化の経験があった。資本蓄積、経営能力、読み書きそろばんのリテラシーの普及、労働規律などが培われていたことを見逃すことはできない。産業文明を受容する準備は、人口減退の18世紀に、すでに始まっていたのである。