「自分の可能性は自分にしか開けない」後悔を糧にして掴んだ夢のメダル。元体操日本代表・村上茉愛の挑戦と日々を支えた食習慣
――明星高校に入学し、2年の時には世界選手権にも出場しました。 2013年に初めて世界選手権に出た頃は気持ち的に前を向いていたんですけど、そこから高校3年生にかけては「体操をやめようかな」と悩むようになりました。世界選手権のときに周りから「メダルが取れる」と言ってもらえていて、自分自身もその時の演技構成ならメダルに手が届くと思い挑みましたが、それが過信だと思い知らされたのが大きかったです。海外の有力選手にボロボロに負けて、メダルも逃し、燃え尽きた感覚になった。体も全然動かないし、気持ちが下を向いて、「もうやらなくていいかな」というところまで行っていましたね。 ――そこから再び前向きになれたきっかけは? 1つはジュニア時代からの指導者に「そもそもお前ができるかできないかで今、判断していたら、できるわけないだろ」とズバリ言われて、衝撃を受けたこと。池谷さんにもつねにカツを入れられていましたけど、やっぱりアスリートには厳しい言葉も必要。弱い部分をちゃんと指摘してくれる人がいるかいないかはすごく大きいと思います。 もう1つは、大学進学のことですね。当時の私は体操を引退するなら、大学に行く必要があるんだろうかと疑問を感じていました。でも、自分から体操を取ったら何もなくなる。そんな気持ちも一方にはありました。 高校を卒業して働くことをイメージしてみたんですけど、「だったら、大学を出た方が社会人としてきちんと働けるのかな」と感じた。まず体操ありきではなく、自分の人生、競技を終えた後の第2の人生を踏まえて、大学へ行った方がいいかなという考えに至った。この決断もプラスに働きました。 ――進路として選んだのは日体大でした。 はい。父の出身校ですし、自分が高校まで教わった指導者も日体出身で、たまに練習にも行かせてもらっていたんで、日体しか知らない状況でした。そこに行くなら、普通に授業を受けるだけじゃなくて、「せっかく体操をやっているんだから、続けるか」という感覚になったのかな。少し中途半端な決断ではありましたけど、1つの人生の通過点として日体に進む決断をしましたね。 ――大学時代は寮生活をして、貪欲にトップを目指しました。 大学時代はいろんな環境から集まった仲間がいて、ポテンシャルの高い選手が揃っていました。高校生までの自分は何でもできちゃうタイプでしたけど、日体では自分の運動神経がないと感じるくらい、周りがすごかったですね。例えば、ラグビー部の友達だったら「どういうプロテイン飲んでるの?」と聞いたり、体作りの方法を教えてもらったりしていました。そうやって沢山の仲間と向き合うことで、自分の考えも自然とまとまっていきましたね。 一方で、トップアスリートを目指すわけではなく、指導者やトレーナーなど別の目標を持って来ている人もいました。すごく面白かったし、刺激を受けることが多かった。自分が所属した体操競技部も、部員がトレーナーをしたり、役員として試合の手続きをしたり、補助をしたりと、いろんな役割を担うことで部活が成り立っていました。そういう組織的な部分も学べて、大学生活はすごく充実していたと思います。 ――恵まれた環境で自己研鑽を図り、大学2年だった2016年にはリオデジャネイロ五輪に挑みました。しかし女子団体は4位。個人種目別床もメダルを取れませんでした。 リオの時は結構、簡単な技でポンと床に手を突いてしまって、それでメダルを逃してしまいました。体操人生で初めて後悔しました。自分としてはしっかり向き合ってるつもりだったけど、きちんと向き合っていなかったのではと考えるようになりました。だからこそ、そこから本気でいろんなことに取り組むようになりました。 それまでの私は「大学生になれば精神的にも肉体的にも落ち着く」と言われてきて、その言葉を頼りにしていたし、「いつか収まるでしょ」と楽観視していたところがあったと思います。でもそれじゃダメだと気付いた。励ましてくれるいい仲間もいましたし、体のことを含めて本気で自分自身と向き合うように変化したと思います。 ――リオの悔しさが、東京五輪への闘志に火をつけたんですね。 そうですね。大学に入った頃は「リオまでは頑張って、あとの2年間は世界選手権を目指すなり、大学生活を楽しむなりすればいい」という軽い考えでした。だから、「東京五輪を目指すんですか?」と聞かれても、「とりあえずリオに集中してます」と回答しかできなかった。 でも、リオでミスをして悔しい思いをした時に「東京を目指したい」っていう考えが 真っ先に浮かびました。ただ、2020年は社会人2年目。体操というのは特殊な競技で、体にかかる負荷もすごく大きいので、大学卒業と同時に引退するのがほとんどで、東京を目指すことには自分自身も葛藤はありましたね。 それでも、東京五輪は人生で1回あるかないか。すごく貴重な機会ですし、東京で育ってきたので、両親にも見せられるいいチャンスになるなと。だからこそ、きちんとした演技をしたいと強く思って、本気で取り組もうと決意しました。