意外に多い「天皇の銅像」 でも、明治天皇はなぜ同じポーズばかり? 顕彰の影にあった「最後の志士」の存在
明治天皇の信頼が厚く、幕末の志士や天皇の顕彰に熱心だった。日露戦争開戦の直前に、幕末の海軍拡充を図った坂本龍馬が昭憲皇太后の夢枕に立った、との真偽不明の逸話も、維新での土佐の役割を強調したかった田中光顕によって広められた、との説がある。 ▽「水戸学」の地にある〝聖像殿〟 さらに調べると、田中光顕は明治天皇顕彰のため、1929(昭和4)年に「常陽明治記念館」(茨城県大洗町、現「大洗町幕末と明治の博物館」)を、1930(昭和5)年には「多摩聖蹟記念館」(東京都多摩市、現「旧多摩聖蹟記念館」)を創設していた。 両館を訪ねると、二つの立派な銅像を目にすることができる。 大洗は例の「サーベル姿」の等身大像で、関係者は「同じ鋳型から計三つの像がつくられたのではないか」と推測する。とすると、そのうち一つは明治神宮に、一つは大洗に、そしてもう一つはいまだ宮中にある、ということになる。 田中光顕がわざわざ茨城の地を選んだのはなぜか。同博物館主任学芸員の尾崎久美子さんによると、尊王攘夷思想に多大な影響を与えた「水戸学」にちなんでいるという。天皇の銅像が宮中にあって国民の目に触れないことを残念に思い、銅像を公開し、それを納める「聖像殿」をつくったのが常陽明治記念館の始まりだった。
一方、多摩の記念館に展示されているのは、高さ3㍍に及ぶ「明治天皇騎馬像」。「サーベル姿」をつくったのと同じ彫刻家渡辺長男(1874―1952年)が、やはり田中光顕の依頼を受けて1930(昭和5)年に制作した。記念館も同時に建てられた。 田中光顕は、長刀を差した26歳当時の写真が現在に残されている。まげを結った紛れもない「武士」の姿をじっと見ていると、暗殺や粛正の嵐が吹き荒れた幕末を生き残り、この人物が昭和まで生きたのが信じられない思いがする。 最晩年、田中光顕はこの若かりし頃の自分の写真にこう揮毫した。「長生きの すべはいかにと人問わば 殺されざりし故と答えむ」 そうした生々しい歴史を生き抜いた者たちによって宮中の奥深くから引き出され、国の頂点に据えられた天皇という存在が、明治、大正、昭和、平成、令和と続いて、今でも日本の最高権威であることに、私は不思議な感慨を覚えた。