意外に多い「天皇の銅像」 でも、明治天皇はなぜ同じポーズばかり? 顕彰の影にあった「最後の志士」の存在
▽オリジナルはどこに? これらの像を見比べてみて、あることに気付いた。ポーズが同じ。左手にサーベル、右手に羽根飾りの付いた帽子。何かモデルになったオリジナルの像でもあるのかと思い、調べてみた。 思いついたのは、東京の明治神宮への問い合わせだ。言うまでもなく明治神宮は明治天皇を祭神とする神社で、境内には「明治神宮ミュージアム」もある。銅像があってもおかしくはない。 予想は的中し、「銅像はないわけではありません。宝物殿にて収蔵・管理しております」と回答された。宝物殿は普段公開されていないが、たまたま年に数度の公開の時期に当たったので見に行ってみた。残念ながら銅像は公開対象にはなっていなかった。 だが、かつて明治神宮が行った展覧会の図録に、この銅像の写真と説明が載っていた。銅像はもともと明治天皇崩御の直後、英姿を後世に伝えることと、悲しみに沈む昭憲皇太后を慰めることを目的につくられ、1915(大正4)年に宮中に奉納された。その後昭和天皇ご成婚を記念して同じものが作られ、24(大正13)年に再び奉納。この大正13年のものが現在は宝物殿に収蔵されている。図録などによると、天皇の顔を忠実に再現するため、そばに使えた典侍や女官、皇太后の証言が参考にされたという。
宮内庁にも問い合わせてみたが、大正時代に2度奉納されたという点で一致。調べた範囲では、この大正4年のものが「最も古い明治天皇銅像」ということになる。全国に数ある明治天皇像は、この像をモデルにして同じポーズになっているのだろう。「最初の銅像」の制作経緯を調べていったところ、ある明治の顕官の存在に行き当たった。 ▽土佐勤王党の生き残り 像の制作を発案し主導したのは、土佐出身で警視総監や宮内大臣などを歴任した田中光顕だった。1843(天保14)年、現在の高知県佐川町に生まれ、武市半平太の土佐勤王党に参加した。叔父の那須信吾は、尊王攘夷運動に批判的だった土佐藩参政・吉田東洋を暗殺した実行犯として知られる。 後に脱藩して長州藩の高杉晋作の弟子となり、新選組に襲撃されかかるなどしたが、幕末の動乱を生き残った。坂本龍馬暗殺では、現場に駆けつけて、重傷の中岡慎太郎から経緯を聞き取った。 維新後、警視総監、学習院院長などを歴任し、1898(明治31)年から約10年間、宮内大臣を務めた。1939(昭和14)年に97歳の長寿を全うし、「最後の志士」とも呼ばれた。