【独自】「黒い雨」新基準 岡山で提訴へ 降雨域外居住 県に被爆認定求め
広島原爆の「黒い雨」
1945年8月6日の米軍による原爆投下後、爆心地の広島市や周辺に降った放射性物質を含む雨。国は76年、大雨が降ったと推定される「特例区域」内に当時いて、11種類の疾病にかかっている人を被爆者健康手帳の交付対象とした。さらに、区域外の原告全員を被爆者と認定した2021年7月の広島高裁判決確定を受け、「原告と同じような事情にある人」の救済を決め、22年4月から原告らが主張する二つの降雨域を認定審査の参考とする新基準の運用を始めた。被爆者として手帳が交付されれば医療費などが原則無料となる。
当時4歳「はっきり記憶」
「黒い雨が降ったことをはっきりと覚えているのに…」。女性は申請却下の通知書に目を落とし、ため息をつく。 1945年8月6日。当時4歳だった女性にとっても「あの日」の記憶は鮮烈だ。お盆を控え、広島県津田町の自宅から徒歩10分ほどの墓地で母親と一緒に掃除をした帰りだった。 「東の山がピカッと光って、ごう音が響いた」 辺りは薄暗くなり、風も強く吹き始めた。空から焼け焦げた紙が舞い落ち、急に雨が降り出した。母親はかぶっていた麦わら帽子を手渡してくれ、自分は手拭いで頭を覆った。異様な雰囲気に恐怖と不安に駆られ、2人は家路を急いだ。 自宅に戻ると、12歳上の姉が手作りしてくれたピンク色の服が真っ黒に染まっているのに気付いた。「大好きな服だったので泣き続けていたら、母が『洗ったらきれいになるから』と慰めてくれた」 女性は長年、黒い雨の記憶を家族にも知人にも話してこなかった。結婚を機に移住した岡山では同じ恐ろしさを味わった人が身近におらず、話題にすることもはばかられた。今年3月、同郷の友人から被爆者の救済拡大を聞いて交付申請したが、新基準でも降雨域外にいたと判断されて却下された。 記憶を否定されたようでショックだったが、同じく却下された同郷の友人が広島で却下取り消しを求めて裁判に臨んでおり、自らも訴訟に踏み切る決意を固めた。「私と同様、周囲に打ち明けられていない人や申請を諦めている人もいるはず。1人で悩まないでと訴えたい」
相談受け付け
岡山県内の被爆2世や医療関係者でつくる「『黒い雨』を考える岡山の会」は申請手続きや訴訟に関する相談を受け付けている。問い合わせは事務局の県民主医療機関連合会(086―214―3911)。