浅香光代さん死去 剣劇役者人生まっとう 幅広い活動でプロレス参戦も
女優・浅香光代(あさか・みつよ)さんが13日に亡くなっていたことがわかった。92歳だった。マスコミ各社が報じている。浅香さんは膵臓がんのため入院していた都内の病院で息を引き取ったという。葬儀・告別式は近親者のみで行う。
誇りを持っていた殺陣、女剣劇の第一人者
浅香さんは東京の出身で1937(昭和12)年、映画界で活躍していた浅香新八郎、森静子らの舞台劇団新生国民座入り。芸名として「浅香光代」を贈られた。1944年(昭和19年)に座長の浅香新八郎が死去すると新生国民座は解散。浅香さんは「浅香光代一座」を発足。低迷した時期もあったが、浅草・新宿といった地の芝居小屋を中心に人気を博す存在となっていく。なお、一座には戸塚睦夫、三波伸介などが在籍、幕間には玉川良一らが客演していたという。 浅香さんは、いわゆる女剣劇の第一人者として自身の殺陣に誇りを持っていた。野村沙知代さんにも剣劇を教え共演したことがあったが、残念ながら共演を機に確執が生まれてしまい、その後、浅香さんがラジオ番組で野村さんを痛烈批判したことからミッチー・サッチー騒動と言われるまでに、思わぬ形で世間の耳目を集めてしまった。
幅広い交友、梨元勝さんは“弟子” プロレス参戦経験も
枠にとらわれないスケールの大きなことが好きだった浅香さんは、2010年にはなんとプロレスにも挑戦。当時存在したMAP(マップ)なる団体(元大相撲・朝青龍との合体をテーマに掲げた団体)が「水面下で参戦交渉を進める大物芸能人」として浅香さんを厚遇。会見で浅香さんは「あたしはまだ若い。ミ・ツ・ヨ(自称)34歳。五分と五分の勝負、やってやろうじゃねえか」とまくし立て、同年5月3日に東京・新宿FACEで身長196センチ体重125キロの大型レスラー、高山善廣と対戦した。坂本龍馬をほうふつとさせる出で立ちでリングに上がった浅香さんは剣劇を武器に高山に立ち向かい、替え玉の選手らのサポートを受けて高山に技をかける一幕もあったが、最後は替え玉が3カウントを取られ完敗。試合後の高山の「ババア大丈夫か」に「お嬢って言え!」と応援した浅香さん、このとき82歳。まだまだ元気だった。 芸能リポーターの梨元勝さんとの“師弟”交友も知られる。前述のプロレスの約1ヵ月前、梨元さんは自身のツイッターで「今日は浅香光代さんの2代目襲名会見に出席して、舞台にも出させて頂きました。何を隠そう、浅香流踊りの弟子なんです。浅香光勝という名取です。恐縮です!」とツイートしているが、同年8月21日に梨元さんは闘病の末、入院中の病院にて死去。訃報を知った浅香さんは「そこまで急がなくてもよかったんじゃないか」と悲しみ、翌月行われたお別れの会では弔事を読んだ。読み終えて祭壇に飾られた梨元さんの遺影に向けて名残惜しそうにしばし手を差しのべ、別れを惜しむ姿が印象的だった。 奇しくもあれから10年、浅香さんも旅立ってしまった。 (文:志和浩司)