友人の「もう元の世界には戻れない」で向き合った現実 #これから私は
そんなある日、ふと「私が変わらないと、何も変わらないよな」と思いました。まず自分が変わる、その覚悟を決めようと。今の状況と自分の不安に向き合い、考えた末、dipの看板を下ろし、東京に避難することに決めました。dipを休刊することは、これまで築いてきたものを断ち切るような辛い決断でした。でも、身を引き裂かれるような思いでお店の方に「休刊するんです、避難を考えています」と伝えると、みんな責めることなく「応援してるよ」と言ってくれて。そのことに救われましたね。 dipの看板をおろすことで初めて、編集者とお店の人、ではなく、不安を抱えた個人として向き合えた気がしました。つらかったですが、それが私が必要としていた変化だったんです。
外とつながり、見つけた役割
2012年2月、東京に向かった木下さん。復興関連の集まりに足を運ぶうちに、復興支援など幅広く活動していたap bank代表理事の小林武史さんと出会う。 ――小林武史さんとの活動は? 木下真理子さん: 小林さんに「今、福島に何をすればいいと思う?」と聞かれて、私は「一人ひとりの名前を覚えてほしい」と答えました。「福島にいる一人ひとりが、どういう状況にいて何が悲しいのか知ってほしい。そしてそれを多くの人に伝えてほしい」と。小林さんと一緒に活動するようになり、その言葉をきっかけにして福島の人たちの等身大の思いを語る「Meets 福しま」という取り組みが生まれました。 これまで、福島の中でお互いに手をつないで頑張ろうとしていたけれど、外に出たらいろいろな人が手をつなごうとしてくれていたんです。それを見たら、福島にいた私が「ここで手をつながないでどうする」と思って。避難していてもいいんだよと言われましたが、気持ちの整理がついたので福島に戻り、さまざまな活動をはじめました。
先人から学んだ、日常をつくる判断力
活動がひと段落した2013年、木下さんは福島市役所文化課が発行していた広報誌「板木」に携わる。 ――広報誌「板木」の制作に携わった理由は? 木下真理子さん: 普通、媒体の目標は数字で出しがちじゃないですか。でも、板木は「読者の家で餅つきが始まることがゴールです」と言われて。それが面白そうだと思ったんです。 板木をやっているうちに、これまで当たり前だった景色が意味を持ち始めました。田んぼを見て急に美しく感じたり、しめ縄に感動したり。背景を知ることで日常の風景が、すごく鮮やかになったんです。昔の人は、自然や病気など、自分たちが抗えないものがあることを知っていました。それに対して、謙虚で、距離のとり方を知っていた。 私たちは、日常が当たり前すぎて、もろいものだなんて思うこともなく、信じ切っていました。でも、3.11を境にそれが違ったんだと気づかされた。だとしたら、昔の人のように、わからない中でも自然からの合図を頼りに判断する必要があるんですよね。判断する力を養っていく必要があるんだということに気づかされました。