友人の「もう元の世界には戻れない」で向き合った現実 #これから私は
自分を取り戻すリハビリ
震災と原発事故後、外の人とつながり、さまざまな役割を担い走り続けた木下さん。3年間の板木のプロジェクトが終わったとき、ふと立ち止まったという。 木下真理子さん: それまで「私がやるしかない」と積み上げてきたのですが、いつの間にか役割を背負いすぎて、「自分がどうしたいか」が後回しになってしまっていたんです。とにかく何かやろうと思って、写真の学校に通い始めました。やってみたら、結果として写真は、失った自分を取り戻すリハビリになりました。 写真は被写体を撮るとき、自分のコンディションも試されます。誰かのために、福島のために、という役割から解放されて、自分と向き合うことができたんです。写真を撮ることで、役割ではない、自分自身を取り戻していきました。 ――2020年に起きたコロナ禍で感じたことは? 木下真理子さん: コロナになって、何もできない自分にびっくりしました。そのとき、大変だと言いながら、役割に支えられている自分がいたことに気が付いたんです。福島のためにという役割があったから、できていたことがあったんだと。 自分を取り戻すリハビリは、まだ途中ですし、これからも続くと思います。でも、コロナ禍で何もできない自分と向き合い、回復してきた今は少し、フラットになった気がしています。役割とか自分とか抜きにして、与えられたものを大事にしていこうと思えるようになりました。
私と議員が「同じ」だと感じた
コロナ禍で先が見えない現在の状況は、原発事故当時と似たものを感じるという木下さん。木下さんが考える「これから」とは? 木下真理子さん: 考え方の違いや意見の分断は、「知ってる」と感じますね。福島の人特有かもしれませんが、避難するしないなど、さまざまな場面で対立や分断が起きた原発事故後と近いので。自分にとっては「2周目」の感覚です。 テレビを見ていると、政府の判断が遅かった、など否定が多く感じます。でも私は、責めようという気持ちにはなりません。震災後、被災体験の話をする機会がありました。そのとき、原発事故時に政権を担っていた旧・民主党の議員の方が聴きに来ていたんですよね。私は避難しようと言って母に断られた体験などを、涙ながらに語りました。議員の方はそれを、じっと黙って聞いていました。後で知ったのですが、その方は原発事故当時、子どもが生まれたばかりだったそうです。1週間ぶりに家に帰り、お風呂に入ったあと、「これから原発に行ってくる」と家を出た。死ぬかもしれないと覚悟をして、家を出たんです。 私は福島で、彼は官邸で、あのとき死ぬかもしれないと思った。それを知ったとき、「同じじゃん」と思ったんです。でも、私は当時の話しをして、みんなの前で泣くことができる。それなのに、判断をしなきゃいけない立場にいた彼らは、泣くことも許されず、十字架みたいなものをきっと一生背負わなくちゃいけないんですよ。それはつらいことだと思うし、悪いことをしようと思ってやった人なんていないはずなんです。 だから、わからないことに立ち向かう人を、否定するのはやめようと思っています。原発事故で、「答えは他人に求めちゃダメだ」と知りました。体験したことのないことに直面したとき、何が正しくて正しくないかなんて、まだ誰にもわからないんです。誰かの出した答えを信じて、その結果を誰かのせいにしても何の意味もない。私はそのことに2011年の春に気が付いたので、それはもういいかなと思っています。 日常は当たり前じゃない。答えのないものが目の前に現れたとき、判断は自分でするんです。だからこそ今も、わからないことに対して頑張っていることを否定せずに、協力しあっていきたいですね。答えは私にもわからないけれど、自分自身にできることを、素直にやっていきたいです。 (撮影・動画編集:平井慶祐 / 文:粟村千愛)