友人の「もう元の世界には戻れない」で向き合った現実 #これから私は
「原発事故で、答えは他人に求めちゃダメだと知りました」。福島でフリーランスの編集者をしていた木下真理子さん。現在も福島で編集と写真の仕事をしていますが、あの日から10年間、変わらずに続けられた訳ではありません。放射線、避難、子育て…さまざまな対立や分断が起きた福島。それでも、木下さんは語ります。「官邸にいた議員も福島にいた私も、あのとき死ぬかもしれないと思った。いた場所が違うだけで、同じ」…。これまでの葛藤と、これからについて聞きました。(Yahoo!ニュース Voice)
友人の「もう戻れないよ」で向き合った現実
2011年。木下さんは福島県で約7年、地域のコミュニティ情報誌「dip」の編集長を務めていた。都市のまね事ではなく、福島の暮らしの良さや楽しさを認識できるようになったと感じていた。そんな時、震災と原発事故で日常は一変したという。 ――震災当時の状況は? 木下真理子さん: 震災後も取材を続け、2011年4月にもdipを発行できました。でも、そのことを喜べなかった。放射線量は毎時20マイクロシーベルト。避難区域に当たらないけれど、不安を感じて自主避難している人もいる。そんな中で「頑張ろう、福島」と言っていいのか、腹の底から納得できていませんでした。 でも、手を握り合って「大丈夫だよね、大丈夫だよね」と言い合うことで、大丈夫だと思いたかった。いきなりドラマや映画の世界に放り込まれた感覚で、どうしたらいいかわからなかったんです。違和感を口にしたら日常を失うんじゃないかと感じて、やり過ごそうとしていました。 そんな中、家族を連れて避難していた友人と再会したんです。いろいろな話をする中で、彼は「もう戻れないよ」と言いました。彼の言葉に、私が信じたかった過去はもうないと気付かされたんです。彼にスイッチを入れられて、まず自分がこの現実と向き合おうと思いました。dipを編集する際、不安を含めてオープンにしていくことにしたんです。すると、自分に正直になれた気がして少し楽になったんですよね。 ただ一方で、dipの看板を通して接している取材先のお店の方とは、お互いが腹の中で抱える不安については話せないままでした。店を続けながら家族を避難させる人もいる中で、このまま続けることが正しいのか。また葛藤するようになりました。それから、自分たちはこんなに苦しい思いをしているのに、一生懸命訴えているのに、社会が変わる様子はなくて。そこにも虚しさを覚えたんです。