商人は華やかだが、つらい仕事 明治期の彩色写真に記録された呉服屋の実態
当時の晩婚と未婚
手代に昇進すると、羽織の着用や、酒、煙草などが許された。しかし、先ほど述べた通り、住居は丁稚同様、店舗を兼ねた主人の家だった。ここから推測できるように、手代に結婚は許可されなかった。 ようやく一人前となり、自分の家を持つことが許されるのは、番頭になった後である。このとき、彼らの年齢は30歳ぐらいだろう。昇進の早かった優秀な者でこの年齢なので、余り能力の高くない場合、頑張っても番頭となれるのは30代後半だった。 だから雇われ商人の多くは、無事に結婚できたとしても、年齢は30歳を過ぎていたと考えてよい。これは、なんとなく「昔の人は早く結婚した」と考えている現代人にとって、意外な事実かも知れない。なお、雇われ商人のみならず、弟子入りした職人も状況は似たようなものである。 しかし、30歳を超えていても、最終的には結婚をして家庭を持てるのであれば、それはそれで良い人生ではないか。こういった考え方もあるだろう。ところが、それは正確な事実の認識に基づいたものとは言えない。雇われ商人のかなりの部分は、結婚をしたり子どもを作ったりする前に、「死んでいた」からである。悲しいことだが、江戸時代に限定すればこれは間違いない。 ある研究によると、江戸時代の中・後期、濃尾地方の農村における女性の平均出産数は5.8人ほどだった(速水融ほか編『歴史人口学のフロンティア』)。全国平均でも、出生率はこの数字と大きく変わることはないだろう。女性たちは今とは比較にならないぐらい、たくさんの子どもを生んでいた。 それにもかかわらず、江戸時代における日本の総人口は、ほとんど増加していないのである。19世紀半ばまで、日本の人口は約3000万人で安定していた。なぜ増えなかったのか。都市部に流入した人々が、「どんどん死んでいた」からである。だから、子孫を残さずこの世を去る者も、決して少なくなかった。これが、いわゆる「都市蟻地獄説」と呼ばれるものである。 都市が「地獄」となった最大の要因は、流行病である。例えば、1862(文久2)年の麻疹(はしか)の大流行では、江戸だけで24万人が亡くなったと伝えられる。100万都市江戸の、約4人に1人が死んだのである。 19世紀の終わり頃から、衛生状態の向上、医療の飛躍的発展によって都市は「地獄」ではなくなっていった。しかし、それ以前の時代においては、職場での出世競争以上に、「死なずに生き抜くこと」が、何より難しかったのである。今とは違った意味で、一生涯未婚だった人々が多い時代だったと言えるだろう。 (大阪学院大学経済学部教授 森田健司)