商人は華やかだが、つらい仕事 明治期の彩色写真に記録された呉服屋の実態
雇われ商人の一生
当時の商人は、どのような人生を送ったのだろうか。これを、呉服屋を例にして考えてみよう。なお、紙幅の関係もあり、今回は男性に限定したものとなることをお許し願いたい。 江戸~明治期の呉服屋は、例外を除き、そのほとんどが家族経営だった。店と住居が同じ建物で、家族が従業員も兼ねるという形式である。しかし、それだけだと労働力が不足する場合が多い。そこで、家族以外の従業員も雇い入れるのだが、彼らの多くは経営者家族と起居を共にする奉公人だった。 奉公人の多くは、同じ商家だけではなく、近隣の地域の農家などの「長男以外の男性」である。長男は家督を継ぎ、商家や農家の主となる。しかし、次男以降は、そうもいかない。そこで、知り合いの商家などに奉公に出るのである。 奉公に出る年齢は、多くの場合、10歳前後と決まっていた。江戸時代であれば、寺子屋で「読み書き算盤」を学び、それが身に付いた頃に家を出る。明治以降であれば、小学校を修了してすぐの頃である。まだまだ甘えたい盛りの子どもに思えるが、この時期から生家を出て、丁稚(でっち)として住み込みの従業員となった。 丁稚である彼らに、いわゆる給料は出ない。寝食の保障が、給金代わりである。そもそも、丁稚はほとんど労働力として機能せず、見習いの段階である。できる仕事と言えば、掃除や力仕事などの雑用に限られていた。原理的に考えれば、お金をもらえる方が不思議なのかも知れない。ただし、盆と正月には、主に現物支給で「ボーナス」が出た。これが、仕着せ(しぎせ)と呼ばれるものである。 丁稚として真面目に勤めた者は、早ければ17~18歳ぐらいで元服(げんぷく)を許され、手代(てだい)に昇進する。この手代から、正式な従業員であり、立派な労働力となった。ただし、住み込みで働くという点においては、丁稚と同じである。 手代になった後、概ね10年以上働き、従業員として優秀であると認められれば、番頭(ばんとう)に昇進する。これが、従業員として最高の職位だった。この後、さらに業務に励み、主人の信認を獲得した者は、暖簾分けが許されることもあった。商人誰もが憧れた、独立である。 雇われ商人の一生は、このようなものだった。だが、ここから一つの疑問が出る。彼らは、一体いつ頃、結婚をしたのだろうか。