「いつ逃げようか」 どん底に落ちた五輪メダリストの絶望と孤独 「結果が全て」と信じたけれど、弱さをさらけ出した先に見えたもの
生まれた価値観の変化
大舞台の切符はつかめなかったが、苦しみ続けた3年間のパリ五輪代表争いを通して価値観に変化が生まれた。
「結果が全て」だと思っていた
「百発百中、勝てる天才は一握り。ほとんどのアスリートが、努力してもうまく行かなくて、試行錯誤しながら、何とか結果に結びつくように自分の中で正解を導き出している。今まではプロアスリートとして『絶対に結果が全て』と思っていたけれど、(SNSを通して)私が苦しみ、葛藤しながら前に進む過程に共感して、そこにエネルギーを感じてくれるファンがたくさんいた。『世の中の人は結果だけを求めているわけではないんだ』と、すごく感じた3年間だった。『過程の価値』を知れたことで少し心に余裕が生まれた。ずっと背負っていた重圧を一度、背中から下ろして『自分にいま、必要なものだけを背負えばいい』と思えた」と実感を込めて語る。
パリへの道、悔いなく走り切れた
初出場したリオ五輪は怖いもの知らずで「自分のために結果を出すという気持ちだった。だから、表彰台でも悔しくて一緒に上がった2人だけを見ていた」と苦笑する。「リオ以降、自分一人の力はどんどん小さくなったけれど、その分、支えてくれる人の力が大きくなった。だからこそ、パリを目指す道のりでは最後の一瞬一瞬まで後悔なく走り切れた」と力強く言い切る。
もう一度、世界へ
他競技も含めてパリ五輪代表争いに敗れた選手たちは多かれ少なかれ、現役生活に別れを告げている。ただ、ラケットを置くつもりはない。「ようやく体のコンディションが上がってきたので、ここで立ち止まりたくない。ここからもう一度、世界のトップに食い込めるか挑戦したい。ずっと真っ暗闇だったけれど、今は私の周りにたくさんの希望がある」。成功か失敗かという結果よりも、そこに向かう挑戦のプロセスが人の心を動かす。その大切さをかみしめながら〝アスリート・奥原希望〟は走り続ける。
【略歴】奥原希望
おくはら・のぞみ 大町市仁科台中から埼玉・大宮東高に進み、2011年の全日本総合選手権を大会最年少16歳8カ月で初優勝し、翌年の世界ジュニア選手権を制した。初出場した16年リオデジャネイロ五輪で3位に入り、17年世界選手権を初制覇。19年にプロに転向し、世界ランキング1位にも立った。21年東京五輪はベスト8。日本ウェルネススポーツ大出。大町市出身。