【平成の記憶・野球編】野茂英雄からイチローへと渡った一個のサインボール
晴天のデーゲーム。サンフランシスコの乾いた空気。現在はショッピングモールに姿を変えているスタジアムに冷たい海風が吹く。アメリカンフットボールとの共有スタジアムで普段、野球では使われないNFL用の一塁側記者席が特別に開放された。そうしなければ収容できないほどの数の日本人メディアが来ていた。不謹慎な話だが、筆者は、米のビートライターと呼ばれるドジャースの番記者から“賭け”を申し込まれた。野茂のデビュー戦の勝ち負けである。 その記者は「勝ち負け無し」に賭けた。さすがメジャー担当の記者である。よくても悪くても「100球5回」を目途に降板、中4日で回すという野球をいつも見ているからそういう発想になる。他記者も野茂のデビュー戦勝利に懐疑的だった記憶がある。 “名将”ダスティ・ベーカー監督が率いるジャイアンツ打線はナ・リーグ屈指の強力打線。その顔ぶれは凄かった。1番に938回連続守備機会無失策の記録を作っていたダレン・ルイスがいて、クリーンナップは、この時点でトリプル3をすでに2度マークしており、当時のメジャー史上最高額の6年約48億円で契約していたバリー・ボンズ、前年に43本塁打を打ちストでの打ち切りがなければ61本のシーズン最多本塁打を更新していたと言われていたマット・ウィリアムズである。 ルイスへの初球はインサイドへのストレートだった。ボールになったが、フォークで見逃しの三振。続く2番も内野フライでポンポンとツーアウトを取ったが、ここからが正念場だった。ボンズに四球。続くウィリアムズの初球に盗塁を許す。その4番にはファウルで粘られ四球。5番のグレナレン・ヒルに対しては、突如、ボールが浮き出してストレートの四球を与えて二死満塁のピンチを作ったのである。だが、野茂は冷静だった。6番のロイス・クレイトンを高めから落とすフォークで空振りにとってピンチを脱した。立ち直った野茂は5回を投げ7奪三振、1安打無失点で91球でマウンドを降りた。ジャイアンツの先発、マーク・ポーチュガルも好投し0-0のスコア。野茂に勝ち負けはつかなかった。 さて試合は、延長15回までもつれこんでドジャースが3点を取った裏に4点を奪われてのサヨナラ負けとなった。野茂が記者会見をしたのは登板から4時間後だった。 結局、野茂の初勝利は、1か月後の6月2日のメッツ戦。7度目の先発だった。筆者は、ちょうど入れ替わりで日本に帰っていたため、その瞬間を目撃することはできなかった。 このシーズン、野茂は“トルネード旋風”を起こして、日本人として初めてオールスターに出場、先発までした。メジャーのボールが合わずにマメが潰れて苦労したが、フォークは驚くほど落ちた。「ボールを動かすことができない。野茂はフォーシームしか投げられないから通用しない」とキャンプで酷評されたが、そのフォーシームとフォーク。そして初見ではタイミングが取り辛い独特のフォームを武器にバッタバッタと三振の山を築く。メジャーではストに嫌気がさしたファン離れが止まらなかったが、その新鮮な“トルネード旋風”は、ドジャースタジアムに人を呼び戻した。アウェーでも野茂が投げると人が来た。メディアが「メジャーの救世主」と評したほどのブームが全米に起き、それはメキシコ出身の左腕、フェルナンド・バレンズエラが1980年代に起こしたブームに重ねて“NOMOマニア”と呼ばれた。結局、野茂のルーキーイヤーの成績は、13勝6敗、防御率2.54、236奪三振で奪三振タイトルと新人王を獲得した。 日本人に対するメジャーの評価を一変させた野茂のデビューイヤーがなければ、その後の日本人メジャーリーガーの活躍は、もう少し紆余曲折したのかもしれない。日米の壁を壊しボーダーレスの流れを作ったのは間違いなく野茂だった。 前ふりがずいぶん長くなった。 本稿で書きたかったのは、この年、野茂からイチローへと渡った、一個のサインボールの存在である。